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最終更新日:2006年3月26日

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●坂口安吾の東京を歩く (日大豊山から東洋大学まで)
  2002年8月17日 V02L02

  先週、蒲田文学散歩の中で、坂口安吾を紹介しましたが、今週から少し続けて「坂口安吾を巡る」を掲載します。坂口安吾は現代では其程有名ではないですが、戦後直ぐの文壇を支えた一人です。嵐山光三郎の文人悪食を読むと「坂口安吾の本を読むとヒロポンを飲みたくなって困る。安吾の時代はヒロポンやゼドリンの錠剤を薬屋で売っていた。どういうものかは飲んだことがないからわからぬが、安吾の著作を読むと、スッキリすると書いてあるので、「そんなにいいなら、やってみたい」という誘惑に駆られる。……錯乱すれば、文章は行きさきを見失う。安吾はそれを強行突破した。並大抵の体力では維持できないが、……それが安吾だといえばそれっきりだが、そう簡単にわかろうとしては困る。安吾は、半狂乱になりながらも、ヒロポン、アドルムの功罪を分析する冷静さがある人なのである。……安吾がヒロポンとアドルムに走ったのは、時代の不安という背景がある。友人の太宰は心中し、弟分の田中英光は自殺した。みんな荒れていた。『堕落論』が売れて、安吾流堕落のなかに自ら殉死したと見ることもできる。」と書いています。ヒロポンは麻薬であり、アドルムは睡眠薬です。どんなに薬を飲んでいても坂口安吾が書くものは小説にしろ評論、エッセイにしろ理路整然として乱れることがなかったようです。戦後直ぐの混乱した時代でしたが、人を引きつけて読ませる文章を書く事のできる”ものすごい作家”だとおもいます、二度と、このような作家は出てこないし、また時代が許さないかもしれません。

ango-tokyo11w.jpg<「坂口安吾を巡る」について>
 昭和20年代初期の文壇を語るのに、”太宰治”、”坂口安吾”、”織田作之助”の三人は外せません。特にこの三人は個性が強く戦後直ぐの日本の文壇を引っ張っていったといっても言い過ぎではないと思います。太宰については既に掲載していますので(まだまだ不十分ですが)今回は「坂口安吾を巡る」を、生まれ故郷の新潟、東京、京都、取手、桐生と何回かに分けて掲載します。

左の写真は今年の6月に発刊された「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」です。住所なども詳細に記載されていましたので、大変参考になりました。

<坂口安吾(さかぐちあんご)>
 新潟市生れ。大正8年(1919)県立新潟中学校に入学。大正11年、東京の私立豊山中学校に編入。’大正15年、東洋大学大学部印度哲学倫理学科に入学。昭和3年からアテネ・フランセにも通い、ヴオルテールなどを愛読。昭和5年東洋大学卒業後、同人誌「言葉」を創刊。’昭和6年に「青い馬」に発表した短編「風博士」が牧野信一に激質され、新進作家として認められる。戦後、『堕落論』『白痴』などで新文学の旗手として脚光を浴びる。(新潮文庫より)

坂口安吾の東京編(1)年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

坂口安吾の東京を歩く(1)

作  品

大正11年
1922
ワシントン条約調印
17
9月 豊山中学校三年に編入(現在の日大豊山)
家族と共に東京市外戸塚諏訪六の借家に同居(現在の新宿区西早稲田二丁目)
 
大正12年
1923
関東大震災
18
年末 池袋の四軒長屋へ転居  
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
20
2月 荏原郡大井町元芝849の借家へ転居
3月 豊山中学校卒業
4月 荏原郡荏原尋常小学校の下北沢分教場に赴任(現世田谷区立代沢小学校)
荏原郡松沢松原1783石野宅に転居(現 松原一丁目)
 
大正15年
1926
蒋介石北伐を開始
NHK設立
21
4月 東洋大学印度哲学科入学  
昭和2年
1927
芥川龍之介自殺
22
9月 北豊島郡西巣鴨町大字池袋1060に転居(現在の豊島区西池袋)  
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
23
4月 アテネ・フランセ入学(神田三崎町)  
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
25
3月 東洋大学卒業
5月 荏原郡矢口町字安方127に自宅を新築
 

ango-tokyo12w.jpg旧豊山中学校>
 坂口安吾の生まれ故郷は新潟ですから、中学も当然、新潟中学校だったのですが、出席日数が足らないのと、ろくに勉強をしなかったため、退学させられそうになります。そこで退学させられるのを防ぐため、当時、護国寺が運営(現在は日本大学)していた東京の豊山中学校に転入します。この当時のことを「風と光と二十の私と」の中で「田舎の中学を追いだされて、東京の不良少年の集る中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であったが、やっぱり映画を見に行くなどということは稀で、学校の裏の墓地や雑司ケ谷の墓地の奥の囚人墓地という木立にかこまれた一段歩ほどの草原でねころんでいた。私がここにねころんでいるのはいつものことで、学校をサボる私の仲間はここへ私を探しにきたものだ。」と書いています。ここで坂口安吾が才能を発揮したのはスポーツだったのです。学校マラソンでスタートすると韋駄天のごとく飛び出す男がいるので、誰かと思ったら坂口安吾だったそうです。大正13年の第十回全国中等学校陸上競技会の走り高跳びで第一位をとっています。すごいな〜〜!

左の写真は現在の日本大学豊山中学校・高校学校です。当初は真言宗豊山派の創設(明治36年)で、昭和27年に日本大学に移管されています。この当時、下宿していたのが東京市外戸塚諏訪六(現在の新宿区西早稲田二丁目)で、早稲田通りから少し入った所です(写真の左側辺りです)。このあとまた下宿を荏原郡大井町元芝849(現在の品川区東大井三丁目)の借家に転居します。


ango-tokyo14w.jpg荏原郡荏原尋常小学校の分教場>
 豊山中学校卒業後、坂口安吾は荏原郡荏原尋常小学校の下北沢分教場の代用教員になります。「私が代用教員をしたところは、世田ケ谷の下北沢というところで、その頃は荏原郡と言い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹薮だらけであった。本校は世田ケ谷の町役場の隣にあるが、私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。…… 私は五年生を受持ったが、……七十人のうち、二十人ぐらい、ともかく片仮名で自分の名前だけは書けるが、あとはコンニチハ一つ書くことのできない子供がいる。二十人もいるのだ。」と書いています。とにかく大変だったようで、現在の住宅街になっている下北沢付近からすると、当時の田園風景は想像もできません。

「アワシマサマというお灸だかの有名な寺」は森厳寺で、代沢小学校から100m位いの所にあります。

右の写真が現在の代沢小学校(当時の荏原郡荏原尋常小学校の下北沢分教場)です。「私は始め学校の近くのこの辺でたった一軒の下宿屋へ住んだが、…、この下宿の娘が二十四五で、二十貫もありそうな大女だが、これが私に猛烈に惚れて、私の部屋へ遊びにきて、まるでもうウワずって、とりのぼせて、呂律が廻らないような、顔の造作がくずれて目尻がとけるような、身体がそわそわと、全く落付なく喋ったり、沈黙したり、ニヤニヤ笑ったり、いきなりこの突撃には慰も呆気にとられたものだ。そして私の部屋へだけ自分で御飯をたいて、いつもあたたかいのを持ってくるから、同宿の猫舌先生がわが身の宿命を嘆いたものである。この娘の狂恋ぶりには下宿の老夫婦も手の施す術がなく困りきっていた様子であったが、私はそれ以上に困却して、二十日ぐらいで引越した。……私が引越したのは分教場の主任の家の二階であった。代田橋にあって、一里余の道だ。」と困惑しながら下宿先を変わっています。当初の下宿の場所は分かりませんが、代田橋の主任の家(写真の左側で正面に見えるのは甲州街道です)はわかりました。


坂口安吾 東京地図 その1
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ango-tokyo18w.jpg東洋大学>
 下北沢分教場の代用教員をやめて、坊主になって悟りを開こうと東洋大学に入学します。「そのころ二十一であった。僕は坊主になるつもりで、睡眠は一日に四時間ときめ、十時にねて、午前二時には必ず起きて、ねむたい時は井戸端で水をかぶった。……睡眠不足というものは神経衰弱の元である。悟りをひらこうという育造心でも身体の生理は仕方がない。僕は昔の聖賢の如く偉くないから、睡眠四時間が一年半つづくと、神経衰弱になった。」とあります。肉体と精神のバランスが崩れると神経衰弱になるわけですが、この神経衰弱を直す為、外国語の勉学に集中しようとアテネフランセに通います。「結局、最後に、外国語を勉強することによって神経衰弱を退治した。目的をきめ目的のために寧日な〈かかりきり、意識の分裂、妄想を最小限に封じることが第一、ねむくなるまででも辞書をオモチャに戦争継続、十時間辞書をひいても健康人の一時間ぐらいし か能率はあがらぬけれども、二六時中、目の覚めている限り徹頭徹尾辞書をひくに限る。梵語、パーリ語、チベット語、フランス語、ラテン語、之だけ一緒に習った。おかげで病気は退治したが、習った言葉はみんな忘れた。」、現在のアテネフランセはお茶の水駅に近いところにありますが当時は三崎町にありました。

左の写真が現在の東洋大学です。東洋大学は明治20年(1887)井上円了により本郷区龍岡町の麟祥院内に「哲学専修」の私立哲学館(東洋大学の前身)として創設されたものです。東洋大学に入学後、下宿を北豊島郡西巣鴨町大字池袋1060(現在の豊島区池袋三丁目)に変えます。当時の番地がアパートにまだ使われていました。

ango-tokyo21w.jpg荏原郡矢口町字安方127>
 東洋大学卒業後、一家で矢口町に自宅を新築、池袋から昭和5年5月引っ越します。坂口安吾の「白痴」では矢口ノ渡付近を次のように描いています。「蒲田暑管内の者は矢口国民学校が焼け残ったから集まれ、とふれている。人々が畠の畝から起き上がり、国道へ下りた。国道は再び人の波だった。」、昭和20年の東京空襲を題材にしており、東急目蒲線の矢口ノ渡駅近くの矢口小学校と第二京浜国道を描いています。この荏原郡矢口町127の住まいに戦後まで住むことになります。

右の写真が坂口安吾宅跡です。現在は新潟日報社の社宅になっています。家は建て直されていますが、赤いレンガの門が当時のままかなともおもいます。

坂口安吾は東洋大学卒業後、この矢口町に住むようになってから本格的に書き始めます。次回は坂口安吾の女性遍歴、矢田津世子との関係、戦中戦後の坂口安吾などを巡ってみたいとおもいます。


坂口安吾 東京地図 その二
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【参考文献】
・評伝 坂口安吾 魂の事件簿:七北数人、集英社
・坂口安吾の旅:若月忠信、春秋社
・定本 坂口安吾全集:坂口安吾、冬樹社
・太宰と安吾:檀一雄、沖積舎
・クラクラ日記:坂口三千代、筑摩書房
・追憶 坂口安吾:坂口三千代、筑摩書房
・新日本文学アルバム(坂口安吾):新潮社
・本格評伝坂口安吾:奥の健男、文藝春秋
・白痴:坂口安吾、新潮文庫
・堕落論:坂口安吾、新潮文庫
・風と光と二十の私と:坂口安吾、講談社文藝文庫
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
 
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