●芥川龍之介の上海を歩く (下)
 初版2012年12月15日<V01L03> 暫定版
 今週も上海シリーズを続けます。今回は「芥川龍之介の上海を歩く 下 」です。前回は日本を出発するところから、上海到着と入院までを掲載しました。今回は上海市内の観光地を巡ります。「上海游記」にはお店や場所名などの固有名詞が書かれているのですが、場所が分からないところがかなりあります。


上海全体地図


「露路」
<露路>
 今回は上海市内の観光地を巡ります。まず最初が”上海の城内”です。上海の地図を見ると市内の南側に直径約1.5Kmの丸く囲まれたところがあるのが分かります。この地区が”上海の城内”です。中国の町は普通城壁を持っているのですが上海は当初無かったようです。安土・桃山時代に日本の倭寇の襲撃を受けたため、これに対抗すべく城壁が築かれています。城壁の高さは約7メートルあったそうです。残念ながらこの城壁は1912年に取り壊されてしまいますが、その跡が環状道路として残っています。

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「    六 城内 (上)

 上海の城内を一見したのは、俳人四十起氏の案内だった。
 薄暗い雨もよいの午後である。二人を乗せた馬車は一散に、賑かな通りを走って行った。朱泥のような丸焼きの鶏が、べた一両に下った店がある。種々雑多の吊洋燈が、無気味な程並んだ店がある。精巧な銀器が鮮かに光った、裕福そうな銀楼もあれば、太白の遺風の招牌が古びた、貧乏らしい酒桟もある。 ── そんな支那の店構えを面白がって見ている内に、馬車は広い往来へ出ると、急に速力を緩めながら、その向うに見える横町へはいった。何でも四十起氏の話によると、以前はこの広い往来に、城壁が聳えていたのだそうである。
 馬車を下りた我々は、すぐに又細い横町へ曲った。これは横町と云うよりも、露路と云った方が適当かも知れない。その狭い路の両側には、麻雀の道具を売る店だの、紫檀の道具を売る店だのが、ぎっしり軒を並べている。その叉せせこましい軒先には、無暗に招牌がぶら下っているから、空の色を見るのも困難である。其処へ人通りが非常に多い。うっかり店先に並べ立てた安物の印材でも覗いていると、忽ち誰かにぶつかってしまう。しかもその目まぐるしい通行人は、大抵支那の平民である。私は四十起氏の跡につきながら、滅多に側眼もふらない程、恐る恐る敷石を踏んで行った。。…」


 「湖心亭」に通じる道は細い路地(露地)ばかりです。その上、訪ねたのが休日だったので凄い人出でした。人をかき分けて路地を歩き進みました。芥川龍之介が書いた露地そのものでした。ただ、お店は食堂がほとんどで3階建て以上になっています。

左上の写真は「湖心亭」に通じる細い露地です.人混みに圧倒されました。

【芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「湖心亭」
<湖心亭>
 「湖心亭」は豫園(よえん)の中にある上海では最も古い茶楼です。豫園(よえん)は明代の庭園でもとは四川布政使(四川省長にあたる)の役人であった潘允端が、刑部尚書だった父の潘恩のために贈った庭園で、1559年(嘉靖38年)から1577年(万暦5年)の18年の歳月を費やし造営されます。清代初頭、潘氏が衰えると荒廃するが、1760年(乾隆25年)、上海の有力者たちにより再建され、豫園は南に隣接する上海城隍廟の廟園となり「西園」と改称されます。当時は現在の2倍の広さがありました。1956年、西園の約半分を庭園として改修整備し現在の豫園となっています。(ウイキペディア参照)

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「 その露路を向うへつき当ると、噂に聞き及んだ湖心亭が見えた。湖心亭と云えば立派らしいが、実は今にも壊れ兼ねない、荒廃を極めた茶館である。その上亭外の池を見ても、まっ蒼な水どろが浮んでいるから、水の色などは殆見えない。池のまわりには石を畳んだ、これも怪しげな欄干がある。我々が丁度其処へ来た時、浅葱木綿の服を着た、辮子の長い支那人が一人、 ── ちょいとこの間に書き添えるが、菊池寛の説によると、私は度々小説の中に、後架とか何とか云うような、下等な言葉を使うそうである。そうしてこれは句作なぞするから、自然と蕪村の馬の糞や芭蕉の馬の尿の感化を受けてしまったのだそうである。私は勿論菊池の説に、耳を傾けない心算じゃない。しかし支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから、時々は礼節も破らなければ、發溂たる描写は不可能である。…」

 商店街に囲まれた細い露地を人をかき分けて進んでいくと「湖心亭」が突然見えてきます。細い七曲がりの橋を渡ると「湖心亭」なのですが、人が多すぎて渡れません。「湖心亭」でお茶を飲もうとおもったのですが不可能でした。

左上の写真は現在の「湖心亭」です。戦前の絵葉書を掲載しておきます。

「城隍廟」
<城隍廟>
 「湖心亭」から少し歩いていくと「城隍廟」です。ここは有料なので人手がぐっと減ります。お参りにくる人がほとんどでした。中国人はお参りが派手です。お線香も大きくて煙が凄くてむせます。

上海城隍廟(しゃんはいじょうこうびょう)は道教の正一教の重要な宮観(道教の建物)です。城隍廟内には、霍光、秦裕伯、陳化成の三体(上海三大城隍)が奉られています。文化大革命の時に、老城隍廟は襲撃を受けて、神像は破壊され、廟の建物は他の用途に流用されていましたが1994年に老城隍廟は修復されて、再び道教の寺院となっています。(ウイキペディア参照)

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「 骨董屋の間を通り抜けたら、大きな廟のある所へ出た。これが画端書でも御馴染の、名高い城内の城隍廟である。廟の中には参詣人が、入れ交り立ち交り叩頭に来る。勿論線香を献じたり、紙銭を焚いたりするものも、想像以上に大勢ある。その煙に燻ぶるせいか、梁間の額や柱上の聯は悉妙に油ぎっている。事によると煤けていないものは、天井から幾つも吊り下げた、金銀二色の紙銭だの、螺旋状の線香だのばかりかも知れない。これだけでも既に私には、さっきの乞食と同じように、昔読んだ支那の小説を想起させるのに十分である。まして左右に居流れた、判官らしい像になると、 ── 或は正面に端坐した城隍らしい像になると、殆聯斎志異だとか、新斉諧だとかと云う書物の挿画を見るのと変りはない。私は大いに敬服しながら、四十起氏の迷惑などはそっち除けに、何時までも其処を離れなかった。…」

 まず”上海の城内”に入り、商店街の露地をぬけて「湖心亭」に向います。「湖心亭」の横の露地をまたぬけると「城隍廟」となるわけです。

左上の写真が現在の「城隍廟」です。写真で見てもあまり人がいません。この後、昼食にしようとお店を探したのですが、結局、熊本ラーメンの「味千(あじせん)ラーメン」に入ってしまいました。 この「味千ラーメン」は日本では熊本を中心に105店舗ですが、中国では324店舗を展開する大手チェーンになっています。豚骨が中国では人気があるようです。

芥川龍之介の上海地図 -2-


「復興公園」
<佛蘭西公園>
 芥川龍之介は上海の西洋式公園を見学しています。西洋式の公園には興味があったのだとおもいます。

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「    十二 西洋

 問。上海は単なる支那じゃない。同時に又一面では西洋なのだから、その辺も十分見て行ってくれ給え。公園だけでも日本よりは、余程進歩していると思うが、 ──
 答。公園も二通りは見物したよ。佛蘭西公園やジエスフィルド公園は、散歩するに、持って来いだ。殊に仏蘭西公園では、若葉を出した篠懸の間に、西洋人のお袋だの乳母だのが子供を遊ばせている、それが大変綺麗だったっけ。 ── だが格別日本よりも、進歩しているとは思わないね。唯此処の公園は、西洋式だと云うだけじゃないか? 何も西洋式になりさえすれば、進歩したと云う訣でもあるまいし。
 問。新公園にも行ったかい?
 答。行ったとも。しかしあれは運動場だろう。僕は公園だとは思わなかった。
 問。パブリック・ガアデンは?
 答。あの公園は面白かった。外国人ははいっても好いが、支那人は一人もはいる事が出来ない。しかもパブリックと号するのだから、命名の妙を極めているよ。
 問。しかし往来を歩いていても、西洋人の多い所なぞは、何だか感じが好いじゃないか? 此も日本じゃ見られない事だが、 ── …」


 <公園の名前が変っています>
・佛蘭西公園 → 復興公園
・ジエスフィルド公園 → 中山公園
・新公園 → 魯迅公園
・パブリック・ガアデン → 黄浦公園

左上の写真が佛蘭西公園、現在の復興公園です。公園の中はあまり変っていないようです。

「上海紡織跡」
<上海紡績(上海紡織)>
 上海紡織の前身は、三井物産が明治35年(1902)、中国人経営の興泰紗廠を買収して上海紡績有限公司として香港政庁に登録したのが最初です。三井家が半数の株式を持って三井物産上海支店が総代理店として管理していました。大正9年(1920)上海紡織株式会社として、改めて会社登記しています。しかしながら東洋棉花創立時の三井本社との約束により、大正11年(1922)4月上海紡織は東洋棉花の傘下に入っています。東洋棉花は大正9年(1920)に三井物産棉花部長であった児玉一造が中心となり、部の業務を継承し東洋棉花株式會社として創立しています。上海租界で莫大な利益を上げた企業の中心的な存在で、豊田紡織、日清製粉等の上海進出も支援した名門企業です。正田貞一郎や黒田慶太郎もこの上海租界で稼いだ上海人脈の一員であったようです。(ウイキペディア参照)

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「    十九 日本人

 上海紡績の小島氏の所へ、晩飯に呼ばれて行った時、氏の社宅の前の庭に、小さな桜が植わっていた。すると同行の四十起氏が、「御覧なさい。桜が咲いています。」と云った。その又言い方には不思議な程、嬉しそうな調子がこもっていた。玄関に出ていた小島氏も、もし大袈裟に形容すれば、亜米利加帰りのコロンブスが、土産でも見せるような顔色だった。その癖桜は痩せ枯れた枝に、乏しい花しかつけていなかった。私はこの時両先生が、何故こんなに大喜びをするのか、内心妙に思っていた。しかし上海に一月程いると、これは両氏ばかりじゃない、誰でもそうだと云う事を知った。日本人はどう云う人種か、それは私の知る所じゃない。が、兎に角海外に出ると、その八重たると一重たるとを問わず、桜の花さえ見る事が出来れば、忽幸福になる人種である。…」


 芥川龍之介が上海を訪ねたのが大正12年ですから上海紡績は既に東洋棉花の傘下に入った後であり、上記にもあるように上海での人脈を辿るには上海紡織→東洋棉花のラインが必要だったわけです。

左上の写真は上海紡織の工場跡です。楊樹浦路2200号西側になります。建物は取り壊されていますが塀はそのままのようです。この付近は戦前は紡績工場がたくさんあったようで、戦後は中国企業が引き継ぎ、そのまま運営されていたようです。上海紡織の社宅跡は「上海歴史ガイドブック」記載があり、すぐに分かりました。涼平路と臨貴路の交差点から東に直ぐの左側になります。隣は同興紡の社宅でした。ただ、”上海紡績の小島氏”が重役だと、重役用社宅となり場所がちがいます。数百メートル西になります(写真を取り忘れました)。

芥川龍之介の上海地図 -4-


「東亜同文書院跡」
<同文書院>
 有名な東亜同文書院です。東亜同文書院は明治34年(1901)東亜同文会(近衛篤麿会長)により、当時清朝支配下にあった中国・上海に設立された日本人のための高等教育機関です。日本人が海外に設立した学校の中でも古いものに属しています。当初、東亜同文書院には政治科と商務科がおかれ、一時は農工科、中国人対象の中華学生部も設置されていました。大正10年(1921)には専門学校令による外務省の指定学校となり、昭和14年(1939)12月には大学令によって東亜同文書院大学に昇格し、予科、続いて学部が設置されます。昭和20年(1945)8月の日本敗戦に伴い、閉学となっています。(ウイキペディア参照)

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「 同文書院を見に行った時、寄宿舎の二階を歩いていると、廊下のつき当りの窓の外に、青い穂麦の海が見えた。その麦畑の処々に、平凡な菜の花の群ったのが見えた。最後にそれ等のずっと向うに、 ── 低い屋根が続いた上に、大きな鯉幟のあるのが見えた。鯉は風に吹かれながら、鮮かに空へ翻っていた。この一本の鯉幟は、忽風景を変化させた。私は支那にいるのじゃない。日本にいるのだと亭っ気になった。しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に、支那の百姓が働いていた。それが何だか私には、怪しからんような気を起させた。私も遠い上海の空に、日本の鯉幟を眺めたのは、やはり多少愉快だったのである。桜の事なぞは笑えないかも知れない。…」

 東亜同文書院は、戦火に追われるように場所を移っています。
南京(南京同文書院時代)→上海市内退省路→上海郊外高昌廟桂墅里→長崎県大村→上海市内赫司克而路→上海西郊徐家匯虹橋路→長崎県長崎→徐家匯海格路→富山県婦負郡呉羽
1901-1917年:上海南門外高昌廟桂墅里(クイシュリ)校舎 上海南市高昌廟
1917-1937年:徐家匯虹橋路、宣山北路の交差点北側付近
1937-1945年:上海交通大学に間借
 芥川龍之介が訪ねたのは大正12年(1923)ですから、徐家匯虹橋路、宣山北路の交差点北側付近になります。

右の写真は広元西路、宣山北路の交差点西側付近になります。右側が運動場跡、左側が校舎跡でこの附近一帯が東亜同文書院跡ですが当時の面影はまったくありません。正門が何処にあったかも分かりませんでした。

 「芥川龍之介の上海を歩く」は一応おわります。改版は随時行う予定です。



芥川龍之介の上海地図 -3-



芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 4月 父親と京都・奈良を見物
9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月19日 友人と共に関西旅行のため東京を立つ
11月20日 大阪堀江のお茶屋に宿泊
11月21日 生駒の宝山寺近くのお茶屋に宿泊
11月22日 京都に宿泊
         
大正12年 1923 関東大震災 31 3月 中国視察のため上海へ向う
7月 帰国
         
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
34 4月 神奈川県の鵠沼で静養
昭和2年 1927 金融恐慌
地下鉄開通
35 7月24日 睡眠薬で自殺