●芥川龍之介の上海を歩く (上)
 初版2012年12月8日
 二版2015年1月6日 <V01L02> 東和洋行の写真を入替え 暫定版
 今週も上海シリーズを続けます。今回は「芥川龍之介の上海を歩く」です。芥川龍之介は大正10年3月28日、大阪毎日新聞社海外視察員として中国に派遣されます。門司から上海に向い、その後、中国各地を訪問しています。上海は病気療養も含めて三週間程滞在しています。この滞在中の芥川龍之介を追ってみました。

「上海游記」
<上海游記>
 芥川龍之介は大正10年3月28日から7月17日頃まで中国各地を訪問しています。大阪毎日新聞社海外視察員としての訪問で、この訪問記を「上海游記」、「江南游記」としてまとめています。現在、上海游記を讀には講談社学芸文庫か、芥川龍之介全集しかないようです。

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「 芥川龍之介の紀行文
                           伊藤棲一

 紀行文というのは、その紀行文の発表された時から、三十年、五十年と年月を経てしまぅと、書かれている事物、風俗等が色視せてしまって、年代の新しい人たちの読物としては、興味を失わせてしまうのではないか、と、私は紀行文学の性格について漠然と思っていたが、このたび芥川龍之介の「上海港記」「江南源記」ほかに親しみながら、実は私の考、蒜妃菱で、紀行文は古くなるほど、かえって新鮮な、格別な味わいをうけとらせてくれるのだ、ということを発見した。
 むろん、これには、芥川龍之介のような、達眼、達筆の人の紀行だから、価値がふえこそすれ古びないのだ、と、いえるのかもしれないが、ともかく、芥川龍之介の紀行記事のみずみずしさ、たのしさには、申し分なく魅き込まれてしまう。ことに上海紀行の明暗こもごもの影絵をみるような世界、そのみごとな描出の手法。…」


 芥川龍之介の文章は読ませますね、読ませますと言うよりは、読み進めさせると言ったほうが良いのかもしれません。谷崎潤一郎も固有名詞の使い方がうまいですが、芥川龍之介も固有名詞の使い方が上手で、現地を訪問したいとおもわせます。

左上の写真は講談社学芸文庫「上海游記、江南游記」です.。芥川龍之介の年譜も入っています。上海訪問にはかかけない一冊です。

【芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「北川楼跡」
<北川旅館>
 芥川龍之介は出発前、里見ク、菊池寛、佐佐木茂索、久米正雄、与謝野晶子、久保田万太郎、山本有三、小島政二郎他に上野精養軒で盛大な送別会を開催してもらっています。この時代、海外渡航は一大イベントだったようです。又、当初のスケジュールでは19日東京発の列車で下関に向い、21日門司発の日本郵船「熊野丸」に乗船予定でした。

 岩波書店 「芥川龍之介全集 第二十四巻」、年譜から
「19日(土) 中根駒十郎に、二二名の名簿を付した上で 『夜来の花』 の献本を依執する【941】。長野草風が来訪し、船酔いの薬をもらう【「上海游記」G】。
 午後5時半、東京発の列車で、中国特派旅行に出発【938−940】。この時点では、21日門司発「熊野丸」に乗船の予定だった【936】。
20日(日) 持ち越した感冒がぶり返して三九度の熱に苦しみ、静養のため大阪で途中下車する。薄田泣菫の世話で北川旅館に行って往診を受け、結局27日まで滞在することになった【942】。「感冒後の気管支加答児が全治しないのを、種々の都合で決行した」ためだった【下島1】。…」


 19日17時30分発の列車は一・二等の下関行急行で、20日20時50分下関着でした。大阪着は20日朝7時4分です。

左上の写真は御堂筋淀屋橋南詰を西に撮影したものです。現在は道も拡張され右側の建物は全て無くなっていますが、当時は川岸に旅館が並んでいたようです。右側から6軒目に北川楼(北川旅館)がありました。当時の住所で大川町75になります。「寺の瓦」で志賀直哉、里見クが大阪で宿泊した「千秋楼」は左隣になります。

「筑後丸」
<筑後丸>
 芥川龍之介は感冒が直らないため、大阪の北川楼(北川旅館)で静養し、21日門司での乗船予定を28日に延ばします。

 岩波書店 「芥川龍之介全集 第二十四巻」、年譜から
「23日 平熱に戻ったため、25日門司発「近江丸」乗 船を考える【942】。
25日 28日門司発「筑後丸」乗船を決定する。大阪滞在中、「大阪毎日新聞」の「日曜附録」に「おとぎ話」を執筆したが【942】、結局掲載されず、のち返却を求めている【1008】。
27日(日) 大阪を出発し、門司に到着【捕】。再び感目がぶり返した「病淋雑記」L】。
28日 門司から筑後丸に乗船し、上海に向けて出発。
 玄海灘ではシケに会い、船酔いする【944・945】。
30日 午後、上海港に到着。トーマス・ジョーンズや大阪毎日新聞社関係者らの出迎えを受ける。」


 芥川龍之介が乗船した船は大阪発、神戸、下関経由 上海行です。長崎−上海間の航路は大正12年開設ですから、乗船時間を減らすには門司乗船しか無かったようです。日本郵船の時刻表が手元にないため、日は分かるのですが詳細な時刻が分かりません。もう少し調べて見ます。

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「    一海上

 愈東京を発つと云う日に、長野草風氏が話しに来た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算だそうである。その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう上海へ着いてしまう。高が二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。 ── こう思った私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、再びわが長野草風画伯の海に怯なる事を気の毒に思った。…」


 上記には”三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも”と書いていますが、実際は日時を当初予定のまま書き、乗船した船の名前は正しく書いています。

左上の写真が「日本郵船 筑後丸」です。あまり綺麗な写真がありませんでしたので、拡大はしません。写真をもう少し探してみます。

「外白渡橋(ガーデンブリッジ)」
<鉄橋>
 芥川龍之介は大正10年3月30日午後上海の日本郵船 匯山碼頭に到着します。出向いの人達と一緒に人力車に乗り、宿泊先の旅館に向います。

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「    二 第一瞥(上)

 埠頭の外へ出たと思うと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我々を包囲した。我々とは社の村田君、友住君、国際通信社のジョオンズ君並に私の四人である。抑(そもそも)車屋なる言葉が、日本人に与える映像は、決して薄ぎたないものじゃない。寧ろその勢の好い所は、何処か江戸前な心もちを起させる位なものである。処が支那の車屋となると、不潔それ自身と云っても誇張じゃない。その上ざっと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしている。それが前後左右べた一面に、いろいろな首をさし伸しては、大声に何か喚き立てるのだから、上陸したての日本婦人なぞは、少からず不気味に感ずるらしい。現に私なぞも彼等の一人に、外套の袖を引っ張られた時には、思わず背の高いジョオンズ君の後へ、退却しかかった位である。
 我々はこの車屋の包囲を切り抜けてから、やっと馬車の上の客になった。が、その馬車も動き出したと思うと、忽ち馬が無鉄砲に、町角の煉瓦塀と衝突してしまった。若い支那人の馭者は腹立たしそうに、ぴしぴし馬を殴りつける。馬は煉瓦塀に鼻をつけた儘、無暗に尻ばかり躍らせている。馬車は無論顛覆しそうになる。往来にはすぐに人だかりが出来る。どうも上海では死を決しないと、うっかり馬車へも乗れないらしい。
 その内に又馬車が動き出すと、鉄橋の架った川の側へ出た。川には支那の達磨船が、水も見えない程群っている。川の縁には緑色の電車が、滑らかに何台も動いている。建物はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階か四階である。アスファルトの大道には、西洋人や支那人が気忙しそうに歩いている。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相図をすると、ちゃんと馬車の路を譲ってくれる。交通整理の行き届いている事は、いくら贔屓目に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都会の及ぶ所じゃない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊恐れをなしていた私は、こう云う晴れ晴れした景色を見ている内に、だんだん愉快な心もちになった。…」


 上海の日本郵船 匯山碼頭は上記の鉄橋(「外白渡橋(ガーデンブリッジ)」)から東に2.3Km程のところにあります。外灘(ワイタン)から見た日本郵船 匯山碼頭付近の写真を掲載しておきます。

左上の写真が鉄橋(「外白渡橋(ガーデンブリッジ)」)です。昔はこの橋の上を電車が走っていました。この付近の当時の寫眞を掲載しておきます(ブロードウエイマンションができる前です)。

上海全体地図


芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 4月 父親と京都・奈良を見物
9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月19日 友人と共に関西旅行のため東京を立つ
11月20日 大阪堀江のお茶屋に宿泊
11月21日 生駒の宝山寺近くのお茶屋に宿泊
11月22日 京都に宿泊
         
大正12年 1923 関東大震災 31 3月 中国視察のため上海へ向う
7月 帰国
         
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
34 4月 神奈川県の鵠沼で静養
昭和2年 1927 金融恐慌
地下鉄開通
35 7月24日 睡眠薬で自殺



「東和洋行跡」
<東亜洋行>
 2015年1月6日 写真を入替え
 芥川龍之介は当初この「東亜洋行?」に宿を取ってもらっていました。

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「…やがて馬車が止まったのは、昔金玉均(朝鮮の改革運動家。1894年没=編注)が暗殺された、東亜洋行と云うホテルの前である。するとまっさきに下りた村田君が、駁者に何文だか銭をやった。
が、馭者はそれでは不足だと見えて、容易に出した手を引っこめない。のみならず口角泡を飛ばして、頻に何かまくし立てている。しかし村田君は知らん顔をして、ずんずん玄関へ上って行く。ジョオンズ、友住の両君も、やはり馭者の雄弁なぞは、一向問題にもしていないらしい。私はちょいとこの支那人に、気の毒なような心もちがした。が、多分これが上海では、流行なのだろうと思ったから、さっさと跡について戸の中へはいった。その時もう一度振返って見ると、馭者はもう何事もなかったように、惜然と馭者台に坐っている。その位なら、あんなに騒がなければ好いのに。
 我々はすぐに薄暗い、その癖装飾はけばけばしい、妙な応接室へ案内された。成程これじゃ金玉均でなくても、いつ何時どんな窓の外から、ピストルの丸位は食わされるかも知れない。 …」


 「東亜洋行」という宿を探したのですが見つかりません。少し調べてみると、「東亜洋行」→「東和洋行」のようです。

 「東和洋行」については「上海の日本文化地図」に詳しく書かれていました。
「 東和洋行は上海に出来た最初の本格的な日本旅館である。1886年、鉄馬路(今河南北路)と北蘇州路の交差する地点に開業されたが、後に北四川路に移転した。…

 1894年3月下旬、朝鮮開化党首金玉釣が朝鮮人洪鐘字によって銃殺されたという、世界を震撼させる事件は上海で発生し、その事件現場が東和洋行だった。金玉鈎暗殺は、日本に日清戦争(甲午戦朝発動の口実を与え、朝鮮が日本の植民地となった後、金玉釣が再評価されるようになった。東和洋行は、「当館は明治20年の創業にして朝鮮の人傑金玉釣事件を以て有名になり」と金玉釣事件を大いに宣伝に利用した。…」


左上の写真の正面に「東和洋行」がありました。現在は大きなビルに飲み込まれてしまっています。又、橋が新しくなって、道路面が高くなっています。1926年の上海年鑑によると、東和洋行本館:北蘇州路四〇號、東和洋行支店:海龍路七號となっており、本館の方になります。

「万歳館跡」
<万歳館>
 芥川龍之介は「東和洋行」には泊らず、「万歳館」に移ります。話のネタになる旅館よりは、やはり綺麗な旅館の方が良かったようです。「東和洋行」は明治19年(1886)に開業ですから大正10年(1921)ですと35年経過しています。古いはずです。

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「 ── そんな事を内々考えていると、其処へ勇ましい洋服着の主人が、スリッパアを鳴らしながら、気忙しそうにはいって来た。何でも村田君の話によると、このホテルを私の宿にしたのは、大阪の社の沢村君の考案によったものだそうである。処がこの精悍な主人は、芥川龍之介には宿を貸しても、万一暗殺された所が、得にはならないとでも思ったものか、玄関の前の部屋の外には、生憎明き間はごわせんと云う。それからその部屋へ行って見ると、ベッドだけは何故か二つもあるが、壁が煤けていて、窓掛が古びていて、椅子さえ満足なのは一つもなくて、 ── 要するに金玉均の幽霊でもなければ、安住出来る様な明き間じゃない。そこで私はやむを得ず、沢村君の厚意は無になるが、外の三君とも相談の上、此処から余り遠くない万歳館へ移る事にした。…」

 「万歳館」は「東和洋行」から1.2Km程の距離ですから歩いても15分程で日本人街も近く便利な場所です。

右の写真の左右が現在の「万歳館」跡です。右側の方が明治37年(1904)に開業、左側に昭和8年(1933)に移転しています。芥川龍之介が泊ったのは右側の方の古い「万歳館」です。当時の寫眞を掲載しておきます。

「里見病院跡」
里見さんの病院>
 芥川龍之介は日本を出発する前から感冒を引いており、大阪で休養しましたが完全には直っていなかったようです。

 講談社文芸文庫 「芥川龍之介 上海游記」より
「…    五 病院

 私はその翌日から床に就いた。そうしてその又翌日から、里見さんの病院に入院した。病名は何でも乾性の肋膜炎とか云う事だった。仮にも助膜炎になった以上、折角企てた支那旅行も、一先ず見合せなければならないかも知れない。そう思うと大いに心細かった。私は早速大阪の社へ、入院したと云う電報を打った。すると社の薄田氏から、「ユックリリョウヨウセヨ」と云う返電があった。しかし一月なり二月なり、病院にはいったぎりだったら、社でも困るのには違いない。私は薄田氏の返電にほっと一先安心しながら、しかも紀行の筆を執るべき私の義務を考えると、愈心細がらずにはいられなかった。…」


 肋膜炎(ろくまくえん)は現在は胸膜炎(きょうまくえん)と呼ばれ、肺の外部を覆う胸膜(壁側胸膜=肋膜・肺胸膜)に炎症が起こる疾患です。胸膜炎はそれ自体で発症することは少なく、ほとんどはがん・結核・肺炎などの後に発症することが多いようです。(ウイキペディア参照)

上記の写真の建物が「里見病院跡」です。当時の建物自体が残っており、ビルの左側になります。当時の写真を掲載しておきます。

 続きます!!


芥川龍之介の上海地図 -1-


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