●芥川龍之介の長崎を歩く 大正11年 (下)
 初版2015年9月12日 <V01L01> 暫定版
 今回は「芥川龍之介の長崎を歩く 大正11年 (下)」です。前回に引き続いて、大正11年(1922)4月25日頃から5月29日まで、長崎に約1ヶ月間滞在した時の後半を歩いてみました。一回の取材しかしておりませんので不十分なところがあります。順次改版する予定です。

「芥川龍之介全集」
<芥川龍之介全集 年譜>
 芥川龍之介の年譜としては芥川龍之介全集の年譜が集大成版だとおもいます。全集も何版か版数を重ねてくると、見やすくなり、解説もついて、本人を知る上で一番の書籍となります。版を重ねた全集は誰が買うのかなと思ったのですが、私が買うくらいですからきっと皆さんも買っているのだとおもいます。

 「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より(大正11年5月)
「18日 渡辺庫輔、蒲原春夫とともに丸山の待合「たつみ」で遊ぶ【「長崎日録」H】。その席で芸妓照菊(杉本わか)を知り、照菊には滞在中、色紙や河童図中最大の力作と言われる「水虎晩帰之図」を銀屏風に描いて与えたりした。「東京に出て来ても恥かしくない女ですよ」などと語っている【永見】。
19日 中川郷の松尾家別荘を訪れる【「長崎日録」H】。
20日(土) 早朝、渡辺庫輔、蒲原春夫らを伴い、ミサに列するため大浦天主堂を訪れる。ロサリオと祈祷書を買い求めた【「長崎日録」H」。
  『点心』刊行。
中旬 旅館「福地屋」の看板が小沢碧童の揮毫によるものであることを知り、小沢や小穴経一に手紙で伝える【1108・1109】。
21日(日) 唐寺を再訪する。夕方、松本家(渡辺庫輔の叔父)へ唐画を観に行く【「長崎日録」H】。
22日 永見家で林源吉(双樹園主人)に会う。夜、蒲原春夫と、照菊を呼んで宴を開く【「長崎日録」H】。
 芥川家の女中を世話してくれ九小穴隆一に、文の代筆で礼状を送る【文献47】。
24日 書画を買い求めた上、あてにしていた金星堂からの印税送金も遅れて(この日の夜、人れ違いに届いた【1112】)旅費が不足したため、中根駒十郎(新潮社支配人)に送金を依頼する【1113】。
28日(日) 「長崎小品」を脱稿。大阪毎日新間社に送る【1118】。
29日 長崎から帰京の途につく。帰途、立ち寄った鎌倉から渡辺庫輔に礼状を書いている【1123】。
 列車の中で、Knut Hamsun "Dreamers"を読了【倉智2】。
下旬 袷の尻が破れ、永見徳大郎夫人からセルを譲ってもらう。新開記者や文学青年の来訪もあったが、居留守を決め込んだ【1112】。
 6月
1日 田端の自宅に戻る。…」

 芥川龍之介の長崎での年譜は、「長崎日録」が元になって書かれているのですが、
 大谷利彦の「長崎南蛮余情」には下記のようにも書かれています。
「… 渡辺庫輔は「澄江堂のある日 忘れ得ぬ人・芥川龍之介」(『朝日新聞』昭和三〇年五月二五日)の中で「長崎日録」についてふれ、「あの日付はでたらめでほどよく日割をされたものであった」と述べている。…」
 ”『朝日新聞』昭和三〇年五月二五日”に関しては、全国版(東京版)には掲載されていませんでした。西部版か長崎版(あれば?)に掲載されていたとおもわれます。確認が取れていません(東京では確認がとれないようです)。谷崎潤一郎もそうですが、作家(文士)はそんなもんです。後で歴史家が辻褄が合わず困るわけです。

左上の写真は岩波書店版の「芥川龍之介全集」です。良く出来た全集です。たいへん参考になりました。

【芥川 龍之介、1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
 芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「芥川龍之介…」
<「芥川龍之介の長崎」 新名規明著(前回と同じ)>
 芥川龍之介の長崎訪問に関しての本を探したら、一冊見つけることが出来ました。新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」 です。紀行文を期待していたら、評論を中心として、長崎で芥川龍之介と関係があった方々について書かれた本でした。

 「あとがき」から
「… 福岡市で発行されている文芸同人誌『ガランス』21号(平成二十五年〈二〇二一〉十二月発行)に「評論・芥川龍之介の長崎」を発表した。この評論は結構、評判がよかった。西日本新聞の「西日本文学展望」(平成二十五年十二月二十六日付)で長野秀樹氏に「多彩な資料を基に述べられていて、貴重な論文である」と褒めていただいた。図書新聞平成二十六年(二〇一四)二月一日号の「同人誌時評」ではたかとう匡子氏より「独特な芥川論を展開しており、面白かった」の評をいただいた。
 長崎文献社の堀憲昭専務より、「芥川龍之介の長崎」を本にしないかのお誘いを受け、第T部の「評論・芥川龍之介の長崎」に、第U部、第V部を加えて刊行することになったのである。」

 よく調べられていて、読んで面白かったです。私としてはもう少し紀行文的なところが書かれていればベストだったとおもいます(ご本人は評論を書きたかったのだとおもいます)。地名や商店、旅館等の固有名詞の描かれた地図や所在の番地が細かく書かれていれば、もう少し読者が広がったとおもいます。

右の写真は 新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」、長崎文献社版です。2015年5月発行ですから、新刊書です。

「長崎南蛮余情」
<「長崎南蛮余情」 大谷利彦>
 芥川龍之介の長崎訪問に関して、書かれた本がもう一冊がありました。長崎県人で長崎を訪ねた文化人達をもてなし、交遊した永見徳太郎について書かれた本です。

 大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」から
「… 五月二十六日、滝井孝作宛絵葉書に、「もう長崎にも飽きた故かへらうと思ふ」と告げ、翌二十七日には真野友二郎(友彦)宛にも同様な言葉を記している。そしてそのあとの箇所に、「実はこの間或人の為に銀屏風へ画と歌とをかきました(略)所が画も歌も字も悉出来損じてしまひましたその為どうも屏風といふものは甚気味の悪いものになってゐます」と報じている。
 これは、長崎に現存する、芥川龍之介の有名な河童屏風制作に関する記述と考えられる。この書簡の「或人の為に」というのが、照菊であったことはいうまでもない。
 この二曲半双の銀屏風は、左手に獲物の魚を提げ、右肩に蒲の穂をかついだ、芥川の自画像とも見える痩身、横向きの河童を左面に描き、右面には、「橋の上ゆ胡瓜なくれは水/ひひきすなはち見ゆる/かふろのあたま/お若さんの為に/我鬼酔筆」と、老成の風を帯びた筆致の五行書き画賛がある。
 芥川と照菊・杉本わかとの間には、芥川帰京後も交流が続くことになる。」

 よく調べられています。特に芥川龍之介の長崎訪問に関しては、秀逸です。上記の新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」でも参考図書とされているようです。

【永見 徳太郎(ながみ とくたろう、1890年(明治23年)8月5日 - 1950年(昭和25年)10月23日)】
 明治23年8月5日生まれ。生地長崎で倉庫業をいとなむ傍ら、長崎を訪れる芥川竜之介ら著名人と交流、長崎の紹介につとめる。南蛮美術品の収集・研究家としても知られています。昭和25年10月23日死去。60歳。号は夏汀。著作に戯曲集「愛染艸」,「長崎版画集」など。(ウイキペディア、コトバンク参照)

写真は 大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」、長崎文献社版(1988年発行)です。「続長崎南蛮余情」が1990年に発行されています。

「丸山の待合「たつみ」跡」
<丸山の待合「たつみ」>
 大正11年5月18日、芥川龍之介は長崎での弟子である渡辺庫輔、蒲原春夫と共に丸山遊郭で遊びます。丸山遊郭というと花月楼が一番有名なのですが、どういうわけか、丸山遊郭から少し離れた高島秋帆旧宅にあった「たつみ」で遊びます。

 「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より
「17日 永見家で、日本画や支那画、鉄翁の硯(この垂涎の品は、大正15年3月に永見徳大郎上京の記念として贈られることになる)を見る【「長崎日録」H】。逸雲、梧門の小品を購人したこともあり【1106・1109】、松山敏(金星堂)に、『点心』三冊と印税の送付を依頼する【1105】。
18日 渡辺庫輔、蒲原春夫とともに丸山の待合「たつみ」で遊ぶ【「長崎日録」H】。その席で芸妓照菊(杉本わか)を知り、照菊には滞在中、色紙や河童図中最大の力作と言われる「水虎晩帰之図」を銀屏風に描いて与えたりした。「東京に出て来ても恥かしくない女ですよ」などと語っている【永見】。
19日 中川郷の松尾家別荘を訪れる【「長崎日録」H】。…」

 芥川龍之介の長崎での出来事で、一番は芸妓照菊(杉本わか)に書き与えた”河童図中最大の力作と言われる「水虎晩帰之図」”です。現在も長崎県立図書館にあります。

 芥川龍之介の「長崎日録」より
「 五月十八日
 丸山の待合「たつみ」に至る。高島秋帆の妾宅なりし家なり。金張付け金襖、皆剥落見るに堪へず。前山の麦黄、後園の竹翠、共に往時を想はしむるものあり。行を同うするもの三人、与茂平、春夫、妓照菊。照菊、結城縮みに八反の帯を締む。東京の芸者と異なる事多し。
 五月十九日
 中川郷の松尾氏別荘に遊ぶ。庭に青芝あり、桜あり。潺種を絶たざる細流あり、光琳の屏風一双を見る。未だその佳否を明らかにせず。…」


【高島秋帆旧宅(たかしましゅうはんきゅうたく)】
 秋帆の父、町年寄高島四郎兵衛茂紀(たかしましろうべえしげのり)が文化3年(1806)現在地に別邸を建て、雨声楼(うせいろう)・齢松軒(れいしょうけん)等と呼ばれた。秋帆は父の没後町年寄を継ぎ、また長崎表御取締(ながさきおもておとりしまり)も命じられていた。天保9年(1838)の大火で、大村町(現在の万才町)の高島邸が類焼したので、以後この別邸が使われた。秋帆は荻野(おぎの)流砲術を父に学び、オランダから銃砲を購入し、併せて西洋砲術を研究し、わが国兵制改革の急務を幕府に上申した。天保12年(1841)5月武州徳丸原(現在の東京都板橋区高島平))で洋式の訓練を実施し、幕府から褒賞を受けたが、天保13年無実の罪で捕えられ、12年後釈放された。国防に尽したが、慶応2年(1866)68才で没。雨声楼は原爆で大破し破却された。(長崎市ホームページより)

上の写真が現在の高島秋帆旧宅跡、「たつみ跡」です。右の階段を登った山の上(丘?)にあります。当時は長崎港も含めて市内を一望できたとおもいます。現在は階段と門と塀の一部があるのみです。


芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 4月 父親と京都・奈良を見物
9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
5月4日 菊池寛と共に長崎に出発
5月5日 長崎に到着
5月11日 大阪に向かう
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月 友人と共に関西旅行
         
大正11年 1922 ワシントン条約調印 30 4月28日 京都経由長崎に出発
5月5日頃まで京都に滞在
5月10日 長崎に到着、花屋旅館に滞在
5月29日 長崎から帰京、鎌倉泊
6月1日 田端に戻る
         
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
34 4月 神奈川県の鵠沼で静養
昭和2年 1927 金融恐慌
地下鉄開通
35 7月24日 睡眠薬で自殺



「水虎晩帰之図」
<「水虎晩帰之図」>
 芥川龍之介は長崎で、丸山遊郭「たつみ」の芸妓照菊(杉本わか)に河童図中最大の力作と言われる「水虎晩帰之図」を書き与えます。芸妓照菊(杉本わか)がよっぽど気に入っていたのだとおもいます。

 大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」には下記のようにも書かれています。
「 芥川氏が、長崎に再遊の時……。大正十一年五月の事。
 私の乞ふまま、芥川氏は硯に筆を染浸ませ、一線一線毎に、河童の図を書き初められた。氏は、創作をされる時と同じ様に気分を落付けて、筆を卸して居られたが、一板を破り二枚を破り、三枚目に、 「もう労れてしまった……明日書きましやう。」と言って筆を投げてしまはれた。…
… 翌日お昼過ぎに、芥川氏は大急ぎで、
 「大筆と唐墨を貸しませんか?。」
 と言はれるので、昨日約束の河童を大幅に描かれる事であらうと、紙迄添へて出すと、芥川氏の癖であるところの長髪を、一度左手にてなであげ、右手には、唐墨と大筆を掴むやうに、懐に振込み、脱兎の如く戸外に出られた。実にその姿は、脱兎の如くであった。

 芥川氏は、遂々河童之図を残さずして、帰京してしまはれたのである。

 八月の暑い日盛りは、丸山の廓にも、強く照りかがやいて居た、何処からともなく稽古三味線が、ポツンポツンと鳴って居る。私は、小島の坂をくだって居ると、驟雨がドット降って来た。
 石段を駆け降りると、其処には丸山の名妓照菊君の住居であったから、雨宿のつもりで、飛びこんで座敷に通ると、是は驚いた、二枚折銀屏風が、燦然と光って、その周囲の三味線や、鏡台の艶めかしい調子を打毀すかのやうに、筆力雄大なる水虎晩帰之図が目立つのであった。…」

 上記には、芥川龍之介は「水虎晩帰之図」を長崎では書かなかったと書いています。屏風になっていますから、東京で書いたのであれば芥川家の方が何方か見ているはずです。年譜では長崎から東京への帰りに鎌倉に寄ったと書かれています。そこで書いて長崎の照菊に送ったのではないでしょうか?(推定?)


左上の写真が現在、長崎県立図書館にある「水虎晩帰之図」です。

「橋の上ゆ(から)胡瓜(きゅうり)なくれば(投ぐれば)
水ひひき(響き)すなわち見ゆる
かふろ(禿 おかっぱ)のあたま
   お若さんの為に
           我鬼(がき・龍之介の俳号)酔筆」



芥川龍之介の長崎地図 (甲)(立原道造の地図を流用)



「大浦天主堂」
<大浦天主堂>
 芥川龍之介は大浦天主堂でのミサに参列するため朝早く出かけます。キリスト教に興味があったというより、長崎での受難について小説のネタを探しに訪ねたとおもいます。

 「芥川龍之介全集 年譜」より
「20日(土) 早朝、渡辺庫輔、蒲原春夫らを伴い、ミサに列するため大浦天主堂を訪れる。ロサリオと祈祷書を買い求めた【「長崎日録」H」。
  『点心』刊行。
中旬 旅館「福地屋」の看板が小沢碧童の揮毫によるものであることを知り、小沢や小穴経一に手紙で伝える【1108・1109】。…」

 上記に書かれている”旅館「福地屋」”については、調査不足で場所が特定できていません。

 芥川龍之介の「長崎日録」より
「 五月二十日
                *         *
 払暁、与茂平、春夫の二人と「日本の聖母の寺」に至る。弥撒の礼拝式に列せん為なり。松ヶ枝橋を過ぐる頃、未だ天に星光あり。天主堂の内陣に入れば、耶蘇受難の色硝子画、薄暗き中に仄めけるを見る。参詣の男女四五十人、僕等の傍らに混血児の女あり。与茂平、その顔を窺ひてやまず。式終りて後、門前の受附の男を欺き、念珠祈祷の書等を購ふ。奉教人にあらざれば鬻がざればなり。…」


左上の写真が大浦天主堂です。原爆でも一部が破損しただけで焼失を免れています。

「興福寺」
<唐寺>
 芥川龍之介は長崎のお寺も訪ねています。唐寺と呼ばれているのは一般的には黄檗宗の寺院である東明山興福寺のこととおもうのですが、現在では長崎市にある黄檗宗の寺院三寺、興福寺、崇福寺福済寺のことのようで「長崎三福寺」と呼ばれているようです。

 芥川龍之介の手帳4から(日時は不明)
「…○大浦の天主堂St. Juan寺 ○本蓮寺ノ板扉(切支丹井戸) 大恩寺(〔家康〕徳川家一代の位牌 ── 物徂来ノ碑)○崇福寺
○慶長十九年より早くつぶる 日蓮宗の僧来る(Christiansがこの僧を迫害す 道ふさぎと称する大笠をかぶりて説教す) 切支丹の祟
 見開き9
○興福寺 石段−往来−石 門 元和六年立 宝林楢葉千秋茂(赤へ金 古) 東明山 福地明山万古隆(同上) 悦峯 赤へ金 石垣の上に白壁 雑草−蔦 右傍石偏 鶏 細路大殿と〔二字不明〕を見る
○鐘楼
○石段左折門 実科高等女学校
○大宝殿 権−椎雄? 戸−サヤ形格子 赤−黒−金
 外 万載江山(黒へ金 新)
 内 航海慈雲(金へ黒 新)
○蘇鉄 屋根の草 屋根白シツクヒ
○三尊 支那燈籠 済世法王(群青へ金) 柱角なり 花御堂 春菊 金盞花 薊 麦 松の緑 げんげ 撫子 あやめ
○赤−金−群青−緑青 埃の勾 白壁 石甃
 見開き10
○山−町−教会の塔○夏蜜柑 バナナ○橋 青き水 夏みかんをならベ商ふ女(カゴ) 川に浮ぶ家鴨…」

 ここでは崇福寺、興福寺が書かれていますが、崇福寺は名のみで、興福寺についてはかなり書かれています。

 「芥川龍之介全集 年譜」より
「21日(日) 唐寺を再訪する。夕方、松本家(渡辺庫輔の叔父)へ唐画を観に行く【「長崎日録」H】。
22日 永見家で林源吉(双樹園主人)に会う。夜、蒲原春夫と、照菊を呼んで宴を開く【「長崎日録」H】。
 芥川家の女中を世話してくれ九小穴隆一に、文の代筆で礼状を送る【文献47】。
24日 書画を買い求めた上、あてにしていた金星堂からの印税送金も遅れて(この日の夜、人れ違いに届いた【1112】)旅費が不足したため、中根駒十郎(新潮社支配人)に送金を依頼する【1113】。
28日(日) 「長崎小品」を脱稿。大阪毎日新間社に送る【1118】。
29日 長崎から帰京の途につく。帰途、立ち寄った鎌倉から渡辺庫輔に礼状を書いている【1123】。
 列車の中で、Knut Hamsun "Dreamers"を読了【倉智2】。
下旬 袷の尻が破れ、永見徳大郎夫人からセルを譲ってもらう。新開記者や文学青年の来訪もあったが、居留守を決め込んだ【1112】。
 6月
1日 田端の自宅に戻る。泉鏡花に、生原稿を収集している永見徳大郎のために何か原稿を譲ってもらえるよう依頼する【1124】。鏡花からは承諾の返事があり、7日に礼状を書いている【1127】。。…」

 芥川龍之介は5月29日に帰京しています。

 大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」には帰京に関して下記のように書かれています。
「…七月二十五日の『長崎民友新聞』は、「芥川龍之介の横顔」として、河童屏風の写真入りで渡辺庫輔の文章を掲載した。それには、「芥川先生が長崎を離れられたのは五月二十九日午前十一時二十五分発の汽車であった」とある。…」
 大正10年8月の時刻表によると
 長崎発11時25分→門司着17時55分(一日一本の門司行急行);5月29日
 門司→下関間は連絡船
 門司発19時10分→横浜着18時46分(特急、大船は止まらない);5月30日
 横浜→鎌倉(横須賀線)
 30日の日付で長崎の渡辺庫輔宛礼状を出しています。列車の中で書いて、鎌倉駅で出したのかもしれません。横浜到着が19時近いのでその日の消印は無理かとおもいます。

 芥川龍之介の「長崎日録」より
「 五月二十一日
 古袷の尻破れたれば、やむを得ずセルの着物をつくる。再び唐寺に詣る。
     唐寺の玉巻芭蕉肥りけり
 薄暮、与茂平と松本家に至り、唐画数幅を観る。沈南頚の蓮花図、写生の妙を得たり。
 五月二十二日
 夏汀の家に双樹園主人と遇ふ。夜、数人と鶴の家に飲む。林泉の布置、東京の料理屋に見ざる所なり。春夫酔ふ事泥の如し。妓の侍するもの、照菊、菊千代、伊達奴等。戯れに照菊に与ふ。
     萱草も咲いたばつてん別れかな…」


【興福寺(こうふくじ)】
 興福寺(こうふくじ)は、長崎市寺町にある、日本最古の黄檗宗の寺院です。山号は東明山。山門が朱塗りであるため、あか寺とも呼ばれています。1624年(寛永元年)に中国僧の真円により創建され、崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の一つに数えられています。本寺には、浙江省・江蘇省出身の信徒が多いため、南京寺とも称せられています。黄檗宗の開祖隠元隆gゆかりの寺院で、本堂にあたる大雄宝殿は国の重要文化財に指定されています。(ウイキペディア参照)

右上の写真は現在の興福寺です。朱塗りのお寺で、黄檗宗のお寺だと直ぐに分かります。本山は宇治にある万福寺です。