<芥川龍之介全集 年譜>
芥川龍之介の年譜としては芥川龍之介全集の年譜が集大成版だとおもいます。全集も何版か版数を重ねてくると、見やすくなり、解説もついて、本人を知る上で一番の書籍となります。版を重ねた全集は誰が買うのかなと思ったのですが、私が買うくらいですからきっと皆さんも買っているのだとおもいます。
「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より(大正11年5月)
「18日 渡辺庫輔、蒲原春夫とともに丸山の待合「たつみ」で遊ぶ【「長崎日録」H】。その席で芸妓照菊(杉本わか)を知り、照菊には滞在中、色紙や河童図中最大の力作と言われる「水虎晩帰之図」を銀屏風に描いて与えたりした。「東京に出て来ても恥かしくない女ですよ」などと語っている【永見】。
19日 中川郷の松尾家別荘を訪れる【「長崎日録」H】。
20日(土) 早朝、渡辺庫輔、蒲原春夫らを伴い、ミサに列するため大浦天主堂を訪れる。ロサリオと祈祷書を買い求めた【「長崎日録」H」。
『点心』刊行。
中旬 旅館「福地屋」の看板が小沢碧童の揮毫によるものであることを知り、小沢や小穴経一に手紙で伝える【1108・1109】。
21日(日) 唐寺を再訪する。夕方、松本家(渡辺庫輔の叔父)へ唐画を観に行く【「長崎日録」H】。
22日 永見家で林源吉(双樹園主人)に会う。夜、蒲原春夫と、照菊を呼んで宴を開く【「長崎日録」H】。
芥川家の女中を世話してくれ九小穴隆一に、文の代筆で礼状を送る【文献47】。
24日 書画を買い求めた上、あてにしていた金星堂からの印税送金も遅れて(この日の夜、人れ違いに届いた【1112】)旅費が不足したため、中根駒十郎(新潮社支配人)に送金を依頼する【1113】。
28日(日) 「長崎小品」を脱稿。大阪毎日新間社に送る【1118】。
29日 長崎から帰京の途につく。帰途、立ち寄った鎌倉から渡辺庫輔に礼状を書いている【1123】。
列車の中で、Knut Hamsun "Dreamers"を読了【倉智2】。
下旬 袷の尻が破れ、永見徳大郎夫人からセルを譲ってもらう。新開記者や文学青年の来訪もあったが、居留守を決め込んだ【1112】。
6月
1日 田端の自宅に戻る。…」
芥川龍之介の長崎での年譜は、「長崎日録」が元になって書かれているのですが、
大谷利彦の「長崎南蛮余情」には下記のようにも書かれています。
「… 渡辺庫輔は「澄江堂のある日 忘れ得ぬ人・芥川龍之介」(『朝日新聞』昭和三〇年五月二五日)の中で「長崎日録」についてふれ、「あの日付はでたらめでほどよく日割をされたものであった」と述べている。…」
”『朝日新聞』昭和三〇年五月二五日”に関しては、全国版(東京版)には掲載されていませんでした。西部版か長崎版(あれば?)に掲載されていたとおもわれます。確認が取れていません(東京では確認がとれないようです)。谷崎潤一郎もそうですが、作家(文士)はそんなもんです。後で歴史家が辻褄が合わず困るわけです。
★左上の写真は岩波書店版の「芥川龍之介全集」です。良く出来た全集です。たいへん参考になりました。
【芥川 龍之介、1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です)
、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』