●芥川龍之介の長崎を歩く 大正11年 (上)
 初版2015年8月30日 <V01L02> 暫定版
 今回は「芥川龍之介の長崎を歩く」です。芥川龍之介は大正8年と大正11年の2回長崎を訪ねています。 今回は大正11年(1922)4月25日から5月29日まで、長崎に約1ヶ月間滞在した時を歩いてみました。一回の取材しかしておりませんので不十分なところがあります。順次改版する予定です。

「芥川龍之介全集」
<芥川龍之介全集 年譜>
 芥川龍之介の年譜としては芥川龍之介全集の年譜が集大成版だとおもいます。全集も何版か版数を重ねてくると、見やすくなり、解説もついて、本人を知る上で一番の書籍となります。版を重ねた全集は誰が買うのかなと思ったのですが、私が買うくらいですからきっと皆さんも買っているのだとおもいます。

 「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より(大正11年4月)
「 4月
1日(土) 儔、フキを連れて京都・奈良方面の旅行に出かけるか【1086】。京都では「富土亭」に滞在し、瓢亭を訪れたり、花見や都踊り見物と、呑気に過ごした【1090-1093】。
8日(土) 京都・奈良方面の旅行から帰宅する。渡辺庫輔に、長崎再遊の予定(25日出発、京都に二、三日滞在した後、長崎到着)を知らせ、宿の手配を依頼する【1094】。
13日 午後6時、神田基督教青年会館で行われた、春陽堂主催の英国皇太子来朝記念莫文学講演会で「ロビン・ホット」と題して講演をする。他に野口米次郎(「英詩論」)、厨川白村(「英文学と良族性」)、スペイト(帝天教授。英語講演)らが講演をした【「ロビン・ホット」H・文献18】。
16日(日) 田端の白宅で、Anatole France "the wicker work woman ; a chronicle of our own times"を読了【倉智1】
  「「点心」自序」を脱稿。
22日(土) 佐藤春夫から『南方紀行』を贈られ、礼状を書く【1098】。
23日(日) 午前、『沙羅の花』出版に関する相談のため、小穴隆一、横関愛造が来訪するか【1096】。
25日 朝、長崎再遊旅行に出発【1100・1101】。…」

 芥川龍之介は京都経由で長崎に向かいます。何度京都を訪ねたかは把握していないのですが、私の「東京紅団」では、大正6年4月と、大正9年11月を掲載しています。芥川龍之介は京都が好きなようです。(別途掲載予定)

写真は岩波書店版の「芥川龍之介全集」です。良く出来た全集です。たいへん参考になりました。

「芥川龍之介…」
<「芥川龍之介の長崎」 新名規明著>
 芥川龍之介の長崎訪問に関しての本を探したら、一冊見つけることが出来ました。新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」 です。紀行文を期待していたら、評論を中心として、長崎で芥川龍之介と関係があった方々について書かれた本でした。

 「あとがき」から
「… 福岡市で発行されている文芸同人誌『ガランス』21号(平成二十五年〈二〇二一〉十二月発行)に「評論・芥川龍之介の長崎」を発表した。この評論は結構、評判がよかった。西日本新聞の「西日本文学展望」(平成二十五年十二月二十六日付)で長野秀樹氏に「多彩な資料を基に述べられていて、貴重な論文である」と褒めていただいた。図書新聞平成二十六年(二〇一四)二月一日号の「同人誌時評」ではたかとう匡子氏より「独特な芥川論を展開しており、面白かった」の評をいただいた。
 長崎文献社の堀憲昭専務より、「芥川龍之介の長崎」を本にしないかのお誘いを受け、第T部の「評論・芥川龍之介の長崎」に、第U部、第V部を加えて刊行することになったのである。」

 よく調べられていて、読んで面白かったです。私としてはもう少し紀行文的なところが書かれていればベストだったとおもいます(ご本人は評論を書きたかったのだとおもいます)。地名や商店、旅館等の固有名詞の描かれた地図や所在の番地が細かく書かれていれば、もう少し読者が広がったとおもいます。

写真は 新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」、長崎文献社版です。2015年5月発行ですから、新刊書です。

「旧長崎駅」
<長崎駅>
 大正11年4月25日、芥川龍之介は東京から京都経由で長崎に向かいます。大正10年8月の時刻表によると、東京から長崎直行だと、特急(一本しかない)で東京9:30発、下関9:38着(翌日)で約24時間掛かります(京都着19時38分で約10時間)。下関から連絡船で門司に渡り、10時50分発の急行で長崎に向かいます。長崎着が17時15分となり、東京から累計約32時間となります。京都からだと、22時間です。普通の人が到底乗っていられる時間ではないです。時間は掛かりますが船の方が楽かもしれません。(大正12年7月の時刻表では朝の特急が二本に増えています。東京発8時45分(三等)、9時30分(一、二等))

 「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より
「 4月
25日 朝、長崎再遊旅行に出発【1100・1101】。
 京都に向う列車の中で、George Bernard Shaw "Misalliance With a treatise on parents and children"を読了【倉智2】。
28日 京都に滞在する。恒藤恭、小林雨郊の家を訪れたり、祇園で遊んだりして【1102】、 翌月5日頃まで京都で過ごした。
 5月
6日(土) 芥川家の女中を世話してくれた小穴降一に、文の代筆で礼状を送る【文献47】。
10日 この日までに、長崎に到着【1103】。渡辺庫輔から紹介された本五島町の旅館「花屋」に滞在する【「長崎日録」H】。長崎では、永見徳太郎の世話になった。…」

 東京を25日朝発っていますから、25日中に京都に到着しています。上記の”翌月5日頃まで京都で過ごした”と”10日 この日までに、長崎に到着”は日があきすぎています。何処かに寄ったのかとおもいますが、資料がありません。年譜に書いてなければ調べようがありません。

上の写真が当時の長崎駅です。昭和20年4年の空襲で被害を受け、昭和20年8月の原爆で焼失しています。現在の駅舎の写真を掲載しておきます。この駅舎も高架化で変ってしまいます。

【芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 4月 父親と京都・奈良を見物
9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
5月4日 菊池寛と共に長崎に出発
5月5日 長崎に到着
5月11日 大阪に向かう
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月 友人と共に関西旅行
         
大正11年 1922 ワシントン条約調印 30 4月28日 京都経由長崎に出発
5月5日頃まで京都に滞在
5月10日 長崎に到着、花屋旅館に滞在
         
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
34 4月 神奈川県の鵠沼で静養
昭和2年 1927 金融恐慌
地下鉄開通
35 7月24日 睡眠薬で自殺



「旧本五島町附近」
<花屋旅館>
 芥川龍之介は長崎での宿を以前から懇意にしていた渡辺庫輔(わたなべくらすけ)に頼みます。

 「芥川龍之介全集 第十九巻 書簡」より
「 1088 3月31日渡辺庫輔 田端から
冠省 先達はいろいろ御手数をかけ難有く存じます又玉稿今日落手しました新小説ならば直に頂戴する事と思ひますがその前に中央公論へ見せる事にします あれは中々面白いですね唯あなたの文章の中には文章語法が時々あります「松飾り立ち並ぶ町々」とか「こもる霞の中」(コレハ直シテアリマスガ)とか云ふ類ですかう云ふ語法は永井荷風氏も使用しますがわたしはやはり「松飾の文ち並ぶ」とか「霞のこもる」とかしたいのですあなたは同感できませんか
何時ぞやの茂吉氏の歌わかるたらうと云はれゝばわかるやうな気もするのですしかし連作の場合でもあれは無理ではないですか この頃長塚節氏の「山鳥の渡し」を読みましたあの中の赤光書き入れは面白いが時には感違ひもあるやうですね犬の遠吠の歌などは斎藤氏の歌のまゝでも立派に来来人には通じます
四月下旬か五月上旬頃長崎へ行きたいと思ひます安い気楽な宿を世話して下さいさうしてあなたの鶴の前にも紹介してくれ給へこの間の端書の寄せ書きの一人はほとゝぎすの島村君ですかわたしはこの頃新傾向旧傾向とも反対ですが以前島村君には一度だけ会つた事があります何でも虚子庵の運座の時でした実は顔もはつきり覚えてゐませんしかしおとなしい人でせうわたしは天の成せる駄弁家故長崎へ行けばあなたにも議論を吹きかけますこれは必中てられるものと予め覚悟をしてゐて下さい 頓首
   三月三十一日                          芥川龍之介
  渡辺庫輔様…

   1094 4月8日 渡辺庫輔 田端から
朶雲奉誦僕今来都へ花見に行つて(老親のおともに)かへつだ所です宿を早速さがして下すつた由ありがたうございます唯今の予定では廿五日頃東来発来都辺に二三日低徊した上長崎へまゐるつもりです(宿はどちらでもよろしいあなたの選択に一任します)…」

 渡辺庫輔は芥川龍之介に文章の指導を受けていたようです。弟子ですね。

 「芥川龍之介全集 年譜」より
「10日 この日までに、長崎に到着【1103】。渡辺庫輔から紹介された本五島町の旅館「花屋」に滞在する【「長崎日録」H」。長崎では、永見徳太郎の世話になった。
11日 微雨のため、終日鄭孝胥『海蔵楼詩集』を読んで過ごす【「長崎日録」H】。「蕩々帖」に「鉄翁山水小幅/悟門 端午景物/逸雲 菊/右三幅購人」とある【「蕩々帖」○23」。…」

 渡辺庫輔から紹介された旅館は本五島町の「花屋」でした。この旅館は渡辺家の一軒おいた隣(作家読本 芥川龍之介)だそうです。

 芥川龍之介の「長崎日録」より
「 五月十一日
 微雨あり。僕の宿、雨の至らんとする毎に厠の臭気二階に満つ。僕の長崎に客となるや、上野屋に泊らず、みどり屋に泊らず、わざわざ本五島町の旅寵に投ず。聊か風流の志あればなり。されどこの厠の臭気の油雲と共に至る時は殆ど風流を忘れんとす。終日独り海蔵楼詩集を読む。…」

 当時、長崎で一番有名な高級旅館が上野屋でした。場所は当時の住所で、上野屋:萬歳町12、みどり屋:今町58(全国旅館名簿 大正15年)です。それにしても花屋は大変な旅館のようです。困ったものです。

左上の写真の建物の奥に「花屋旅館」がありました(書物によって花屋、花の屋と書いてありますが同一です)。下記の地図を参照してください。下記の地図は現在の地図に大正時代の地図を重ねたものです(ピッタリは合いませんが区画整理が分かります)。長崎市本五島町は昭和10年に浦五島町と合併し五島町となり、終戦後の区画整理で街並みがすっかり変ってしまっています。当時の地番は本五島町10番(合併後は五島町64番)となってります。下記の地図では読みにくいですが、大正時代の地図では「花の屋旅館」の記載がありましたので間違いないとおもいます。渡辺庫輔宅は芥川文さんからの手紙の宛先で、”本五島町7”と分かっていたのですが、一軒おいた隣なのに、番地としては3軒先となっています。


芥川龍之介の長崎地図 (乙)



「永見家跡」
<永見家>
 芥川龍之介は長崎市銅座の永見徳太郎に世話になります。前回の大正8年5月に長崎を訪ねたときは永見家に宿泊させてもらっています。永見家は長崎の富豪で、著名な芸術家や文士たちとの交流があったようです。

 「芥川龍之介全集 年譜」より
「12日 渡辺庫輔と連れ立って寺町や古道具屋を覗き歩く【「長崎日録」H】。
13日(土) 早朝、永見徳太郎が馬に乗って昼食の招待に来る。午後、永見家を訪ねた後【「長崎日録」H】、渡辺庫輔と松本家(渡辺の叔父)へ唐画を観に行く【「蕩々帖」○23】。…」

 大正時代とは言え、町中を馬に乗っていく人は軍隊を除いていなかったとおもいます。やはりお金持ちだったのですね。

 芥川龍之介の「長崎日録」より
「 五月十二日
 渡辺与茂平来る。共に寺町の道具屋を覗き歩く。如何はしき逸雲鉄翁あるのみ。路に枇杷を商ふものあり。既に夏の来れるを感ず。
 五月十三日
 早朝往来より声をかくるものあり。二階の障子をあけて見れば、馬に乗れる永見夏汀、馬丁と共に佇みゐつ。午飯を食ひに来ませんかと云ふ。宿の飯には絆易せる際なり、後刻参上の旨を答ふ。午頃夏汀の家に行けば、夫人、今朝は御宿へ参りましたらうと云ふ。昨日も参らうと致したのださうですが、馬が参らなかつたさうでございますと云ふ。それから馬丁を呼びましてあちらへ馬の参るやうに馴らせて置けと申して居りましたと云ふ。夏汀は馬を駆るに非ず。馬に駆らる
るものの如し。夏汀の家に馬逵の手長猿、王若水の錦鶏等を観る。若水は剥落甚し。…」


左上の写真正面の3階建てパチンコ屋の附近が永見家跡です。大正13年発行の本の奥付に住所の記載がありまた。長崎市銅座町20番地です。

「大音寺」
<大音寺、清水寺>
 二度目の長崎訪問なので、観光にも出かけず、ノンビリしていたようですが流石に6日目になると出かけます。

 「芥川龍之介全集 年譜」より
「14日(日) 渡辺庫輔、蒲原春夫とともに梅若の謡の会に出かけ、感心する【「長崎日録」H】。
15日 蒲原春夫が訪れ、談笑する【「長崎日録」H】。
16日 渡辺庫輔と二人で大音寺、清水寺などを訪れる。帰途、マリア像を人手し、以後愛蔵した【「長崎日録」H】。
17日 永見家で、日本画や支那画、鉄翁の硯(この垂涎の品は、大正15年3月に永見徳大郎上京の記念として贈られることになる)を見る【「長崎日録」H】。逸雲、梧門の小品を購人したこともあり【1106・1109】、松山敏(金星堂)に、『点心』三冊と印税の送付を依頼する【1105】。…」

 長崎で懇意にしていたのは永見徳太郎、渡辺庫輔、蒲原春夫の三人ですね。新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」でもこの三人についてそれぞれ書かれています。

 芥川龍之介の「長崎日録」より
「 五月十四日
 与茂平、蒲原春夫の二人と梅若の謡の会に至る。長崎に万三郎や六郎を見んとは思ひかけざりし所なり。会場の庭の躑躅の花、紅将に褪せなんとす。(会場は富久屋)
     庭芝に小みちまはりぬ花つつじ
 素謡大原御幸、勧進帳等、処処に感心す。年少の能役者たち、世話役の妓などの往来に眼を転ずる事屡なり。終始眉だに動かさざるもの、唯万三郎一人のみ。与茂平大いに万三郎に敬服す。
但し彼は竹田同様、西辺に生れたる悲しさには音律を解せざる一人なり。
 五月十五日
 蒲原春夫来り、僕の為に佐賀の俗を談る。佐賀の人、兄はゐるかと云ふを「あんじやいもんはをんさるかんだ」と云ふょし。殆ど南蛮鴃舌の感あり。又破落戸を「いけばよし」と云ふょし。
一笑するに堪へたり。今日暑気盛夏の如し。
 五月十六日
 与茂平と大音寺、清水寺等を見る。今日天晴、遥かに鯨凧の飛揚するあり。帰途まりや観音一体を得、古色蘋る愛すべし。
 五月十七日
 夏汀の家に竹田、逸雲、梧門、鉄翁、熊斐、仙崖等の日本画家、江稼圃、沈南蘋、宋紫石、胡公寿等の支那画家を観る。竹田は丸山のエスキス。この画によれば当年の廓は甚だ野趣を存せしに似たり。夏汀又鉄翁の硯を蔵す。もと竹田の贈る所。石薄うして反りかへれるさま、如何にも洒落たる硯なり。僕大いに欲しがれども、夏汀更に譲る気なし。…」

 上記に書かれている”梅若”とは能楽ですね、私は全く知識がありませんのでコメントなしです。

【大音寺(だいおんじ)】
 大音寺は、長崎県長崎市にある長崎三大寺の一つ、浄土宗の寺院。山号は正覚山。院号は中道院。本尊は阿弥陀如来。この寺は、慶長19年(1614)伝誉関徹の開山により創建された寺で、以後長崎奉行の帰依を得て寺地や堂宇の寄進を受けています。江戸時代には江戸幕府からも朱印状を与えられて隆盛しましたが昭和20年(1945)8月の原爆投下により大きな被害を受けます。なお、寛永18年(1641)に建てられた本堂は原爆投下による被害を免れていましたが、その後放火により焼失しています。「大亀の塔」等が有名で、難解な碑文を読解すると亀が動き出すという伝説があるそうです。芥川龍之介はもしかしたら解読したかもしれません。(ウイキペディア参照)

【長崎 清水寺】
 元和9年(1623)京都音羽山清水寺の僧慶順が長崎奉行の長谷川権六より長崎での寺院建立の敷地を与えることを約束され、堂宇を建立し清水寺を開創します。京都清水寺と同様、檀家を持たない祈願寺です。清水寺本堂(観音堂)は国の重要文化財です。(長崎 清水寺ホームページ参照)

右上の写真は芥川龍之介が訪ねた頃の大音寺の絵葉書です。写真を撮影したつもりだったのですが、いくら探してもなく、抜けていたようです(何時になるか分かりませんが撮り直します)。向い側の山麓から撮影した清水寺です。手前の八坂神社から見た清水寺(右側高台)です。

 次回に続きます。

芥川龍之介の長崎地図 (甲)(立原道造の地図を流用)