<長崎駅> 大正8年5月4日、芥川龍之介と菊池寛は長崎旅行に出かけます。長崎での滞在先の永見徳太郎宛の手紙では、4月30日出発の予定が5月4日に変り、特急で出発すると書かれています。大正3年(1914)12月に東京駅が開業していますから、二人は東京駅始発の特急に乗ります。
「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より
「4日(日) 菊池寛とともに長崎旅行に出かける【569】。
二人は車中、文芸論を戦わせたが【「澄江堂雑記」L】、菊池は風邪による頭痛のため岡山で下車し、芥川は尾道で途中下車しながら一人で長崎に向かった【文献12】。
▽「芥川龍之介氏 菊池寛氏と共に三十日出発向ふ 二週間の予定にて京阪より長崎に赴くと」〈4月28日「よみうり抄」〉
▽「芥川龍之介、菊池寛両氏 三十日出発大阪に立寄り長崎に向ふ筈」〈2日「美術と文芸」〉
5日 長崎に到着【569・570】。…」。
年譜では、二人は4日東京を出発、5日長崎着、菊池寛は体調不良のため、岡山で下車と書かれています。
「芥川龍之介全集 18巻 書簡」より
「569 4月30日 永見徳太郎 長崎市銅座町二○ 永見徳太郎様 四月卅日 田端四三五 芥川龍之介・菊池寛
拝啓
友人近藤君に紹介を願った所早速御親切に電報を頂き難有く御礼申します 実は今卅日出発のっもりで居りましたがいろいろ差支へが起って来月四日の特急で立つ事になりました どうか御地到着の際はよろしく御ひきまはし下さい いづれ着後参上するか電話で御都合を伺ふかする心算ですが 念の為この手紙を差上げる事にしました
草々不宣
四月卅日 芥川龍之介
菊 池 寛
永見徳太郎様」
ここでは、4月30日出発の予定が、5月4日の特急に変更したと書かれています。
・大正4年と大正10年の時刻表しかありませんので、それぞれ見比べて見ました。
<大正4年3月の時刻表>
東京駅発 特別急行 8時(4日)→岡山駅 0時34分(5日)→下関駅着 9時38分(5日)
下関→連絡船→門司
門司駅発 急行 10時50分→長崎駅着 17時10分(5日)
<大正10年8月の時刻表>
東京駅発 特別急行 9時30分(4日)→岡山駅0時33分(5日)→下関駅着 9時38分(5日)
下関→連絡船→門司
門司駅発 急行 10時45分→長崎駅着 17時15分(5日)
大正10年の方が東京−岡山間の所用時間が1時間半程早くなっています。
大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」から
「… 前記書簡のように、本来芥川と菊池はそろって長崎へ行く予定であったが、菊池は車中、神戸付近から激しい頭痛をおぼえて途中下車し、岡山、尾道、下関でそれぞれ一泊したあと、芥川に二日ほど遅れて長崎へ着いた。…」
菊池寛が岡山で下車したと書かれていますので、原文を探してみました。
菊池寛の「長崎への旅」から
「… 族行に出る前の日の三時頃に、久米正雄が久し振に尋ねて来た。病気が癒つてから初ての訪問であつたので、ついつい話が長くなつて夜の十時頃迄、喋べつて行つた。
歸る時、春日町迄送つて出た序に神田にの古本屋へ行つたのが悪かった。その時は五月の初旬であつたが、可なり寒かつたので感冒を引いたと見え、翌日汽車に乘つて神戸あたり迄来ると、頭が張り裂けるやうに痛んで来た。長崎へ直行する筈だつたのだ。
流行性感冒以来、病気に就いては極端に憶病になつて居る。此儘、長崎へ行つて病みついたりしては事だと思つたので、芥川に一足先へ行つて貰つて、自分は岡山で一旦下車することにした。つい病気が重くなつたら、故郷の讃岐へ歸つて養生する積であつた。
別れ際に、芥川が「君は讃岐で生れたのだから、讃岐へ死にゝ歸ると云ふ譯になるのぢやないかなあ」と、云つた。
自分も一寸そんな気がして居た。
汽車を降りて見ると、頭痛が半分以上、ケロリと癒つだのには、駭いた。汽車に長く乘つて居たので頭が痛み出しだのぢやないかと思ふ。が、頭を振つて見ると、やつぱり底の方にある微かな痛みを感じた。
驛前の宿屋へ出鱈目に飛び込んだら、可なり汚い六疊の部屋に通された。床の間もない汚い部屋だ。それでも此の宿屋ぢや一番上等の部屋らしい。金毘羅参りか何かの團體が宿り合せて居て、頻りにガヤガヤ云つて居る。何でも團體の客が酒を出せと云ふと、宿屋の番頭が、「團體の方には、お酒は現金でなければ差上げられない」と、云つて居るらしい。それでも疲れて居るので、グツスリと寢てしまつた。翌くる朝起きて見ると、團體の連中が出立した後と見え、番頭と女中とが座敷の掃除をしながら頻りに團體客の悪口を云つて居る。酒代なども現金で取つたればこそ取れたのだと云ふやうな事を云つて居る。頭が少し重い。芥川と一緒に居ると長崎迄もと云ふ元気はあつたが別れると長崎へ行くのが少し億劫になつた。それに頭の重いのも少し心配だ。今日は、尾の道邊でもう一泊宿つて、頭がスツカりよくなつてから、長崎へ行かうと云ふ気になる。岡山の街をぶらぶら散歩して居ると、古本屋に「河内十人斬」と云ふ古い讀本が出て居たので、五錢出して買つた。自分達の少年時代に「のぞきからくり」などに仕組まれて、我々を怯えさせたものだ。熊太郎彌五郎と云ふ加害者の名を、今でも覺えて居るので、つい買ひたくなつたのだ。
午後の汽車で、西を指した。鞆の津と云ふ所は、少年時代から懷しく思つて居るので、是非一晩宿りたいと思つたが、福山から支線へ乗換なければならないので、割愛した。
尾道で降りる事にした。東京を立つ時、新聞の文藝欄で、葛西善哉氏が尾道を立つて、東京迄徒歩旅行すると云ふ消息を讀んだ。志賀直哉氏も、尾道に住んだ事があるさうだ。驛前の族館へ出鱈目に飛込んだ。座敷へ通されて、「海は近いかい」と訊くと、「海なら障子を明けると直ぐ眼の下です」と、云つたので非常に嬉しかつた。いかにも障子を開けると、靜かな港の景色が一眼に見渡された。夫は、瀬戸の内海にしか見られないやうな小さい靜な潮の匂の高い港だ。自分の故郷の讃岐の港と、色々な點でよく似て居る。内海通ひの汽船が、波を切る爽やかな晋を立てながら、入つて来る。いゝ心持だつた。寝る前に、街中を一廻りした。狹いけれども落着いた靜ないゝ街だ。夜寝て居ると、陸から沖にかゝつて居る船を呼ぶ聲に夢を破られた。「神榮丸よ」とか、何とか云つて呼んで居る聲が、港の靜な空気を淋しく搖がして居る。波の音などは、少しも聞えない。尤も、自分は叙景などは至つて拙いから、こんな事はいくら書いたつて始まらないから、此の位でよして置かう。
朝割合に早く起きて見ると、いゝ朝だつた。海の潮は底まで澄み切つて居る。四本マストの素的に恰好のいゝ帆前が眼の前にかゝつて居る。昨夜の内に入港したものらしい。小歌島とか云ふ島が、つい目の前に横はつて居て、港は河のやうに細長く狹い。
午前の汽車で、叉西に向つた。やはり下の關迄まで行つて宿る積だつた。何だか長崎が馬鹿に遠い處にあるやうに思はれて、仕方がない。此邉の山陽線は、初て乗るのだ。廣島を通つた。宮島へ着くと、巌島が眼の前に見える。餘程降りて見ようと思つたが、面倒くさいのでよした。然し此邊、瀬戸内海に添うて居る線路は、可なりいゝ。 … … …
その晩下間で宿つて、あくる日愈々決心して長崎迄乘る事にした。八幡の製鐵所の得體の知れない壮大さは、一寸よかつた。博多の千代の松原と云ふ所は、老松が生ひ連つて居る松林かと思つたら、十年にもなるかならないか分らない松ばかりだつたので、大に意外に思つた。博多から長崎迄の間車窓から見ると、大抵の山はある高さ迄、段々に開墾されて居る。あんな所まで開墾しなければ喰へないのかと思ふと少し氣の毒になつた。…」
岡山駅前の宿泊した旅館を探すのは一寸無理なようなので諦めました。それにしては夜中の12時によく旅館が開いていました、それにこの時間でよく宴会が続いていたものです。尾道駅前の旅館に関しては”海なら障子を明けると直ぐ眼の下です”との事で、「東京物語」を思い出してしまいました。たしか、竹村家ですね、ひょっとしたら同じかもしれません。菊池寛は、岡山、尾道、下関と三泊していますので、長崎到着は5月7日夕方のはずです。
★上の写真が当時の長崎駅です。昭和20年4年の空襲で被害を受け、昭和20年8月の原爆で焼失しています。
現在の駅舎の写真を掲載しておきます。この駅舎も
高架化で変ってしまいます。