●芥川龍之介の長崎を歩く 大正8年
 初版2015年9月26日 <V01L03> 暫定版
 今回は「芥川龍之介の長崎を歩く 大正8年」です。芥川龍之介の長崎シリーズ最終回になります。大正8年(1919)5月4日から5月11日まで、菊池寛と長崎に約一週間間滞在した時を歩いてみました。一回の取材しかしておりませんので不十分なところがあります。順次改版する予定です。

「芥川龍之介全集」
<芥川龍之介全集 年譜>
 芥川龍之介の年譜としては芥川龍之介全集の年譜が集大成版だとおもいます。全集も何版か版数を重ねてくると、見やすくなり、解説もついて、本人を知る上で一番の書籍となります。版を重ねた全集は誰が買うのかなと思ったのですが、私が買うくらいですからきっと皆さんも買っているのだとおもいます。

 「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より(大正8年4月〜5月)
「 4月
3日 前月末日をもって海軍機関学校は退職したが、まだ免官の辞令が出ていない【564】。
  「蜜柑」を脱稿。
10日 内田百間が鎌倉に来訪し、餞別として夏目漱石の書「孟夏草木生」をもらう【内田(百)I】。
15日 「きりしとほろ上人伝」を脱稿。
16日 Hugh Stokes "Francisco Goya ; a study of the work and personality of the eighteenth century Spanish painter and satirist"を読了【倉智2】。
28日 鎌倉を引き払い、田端の自宅に転居する【567】。
 田端では、養父母、伯母と生活を共にした。二階の書斎に菅虎雄筆の扁額「我鬼窟」を掲げ、日曜日を面会日に決めて、他の日は面会謝絶とした【関口5】。面会日には、小島政二郎、佐佐木茂索、中戸川吉二、南部修太郎らの他、滝井孝作なども来訪した【小島3】。
  ▽「芥川龍之介氏 来月中旬頃鎌倉を引払ひ帰京する由」〈25日「よみうり抄」〉
  「大阪毎日新聞」の連載小説(四、五〇回位)の原稿依頼を承諾する【567】(6月末から「路上」連載)。
 5月
4日(日) 菊池寛とともに長崎旅行に出かける【569】。…」


左上の写真は岩波書店版の「芥川龍之介全集」です。良く出来た全集です。たいへん参考になりました。

【芥川 龍之介、1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
 芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「芥川龍之介…」
<「芥川龍之介の長崎」 新名規明著(前回と同じ)>
 芥川龍之介の長崎訪問に関しての本を探したら、一冊見つけることが出来ました。新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」 です。紀行文を期待していたら、評論を中心として、長崎で芥川龍之介と関係があった方々について書かれた本でした。

 「あとがき」から
「…3 長崎初遊
作家専業後はじめての旅
 芥川龍之介は旅を好んだ。旅はいうなれば、気分転換でもあった。明治四十五年(一九一二)四月初旬、富士の裾野を半周して大宮に至る旅行をする。八月中旬、木曽・名古屋方面を旅行する。これは高等学校のときである。大学三年生になる大正四年(一九一五)八月五日から二十一日まで高等学校の時の親友・恒藤恭の故郷山陰の松江に滞在している。大正五年二九一六)七月東京帝大英文科を卒業すると、八月十七日から九月上旬まで千葉県一ノ宮に久米正雄と滞在している。
 大正八年(一九一九)五月、芥川龍之介満二十七歳。いよいよ憧れの長崎へ旅するわけである。同行者は菊池寛であった。同行者の菊池寛は後年つぎのように述べている(『半自叙傳』昭和五年刊・平凡社)。
 「私は新聞社をよして初て、暇を得たので、芥川と一緒に旅行した。これは、私にとっても芥川にとっても記念すべき旅行だった。この旅行前にも芥川は、キリシタン物を書いてゐたが、この旅行に依って、更にこの方面の興味が加つたやうに思ふ」…」

 よく調べられていて、読んで面白かったです。私としてはもう少し紀行文的なところが書かれていればベストだったとおもいます(ご本人は評論を書きたかったのだとおもいます)。地名や商店、旅館等の固有名詞の描かれた地図や所在の番地が細かく書かれていれば、もう少し読者が広がったとおもいます。

右の写真は 新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」、長崎文献社版です。2015年5月発行ですから、新刊書です。

「長崎南蛮余情」
<「長崎南蛮余情」 大谷利彦>
 芥川龍之介の長崎訪問に関して、書かれた本がもう一冊がありました。長崎県人で長崎を訪ねた文化人達をもてなし、交遊した永見徳太郎について書かれた本です。

 大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」から
「…      2 芥川龍之介・菊池寛
 芥川龍之介と菊池寛は、長崎へ旅立つ前の四月末日に、連名で徳太郎に手紙を送っている。封筒の宛名は「長崎県銅座町/二〇/永見徳太郎様」とあり、裏面に「東京市外田端町四三五/芥川龍之介/菊池寛/四月卅日」と記してあるが、毛筆の筆跡は明らかに芥川のものである。
 拝啓
 友人近藤君に紹介を願った所早速御親切に電報を頂き難有く御礼申します実は今卅日出発のつもりで居り ましたがいろいろ差支へが起って来月四日の特急で立つ事になりましたどうか御地到着の際はよろしく御 ひきまはし下さい いづれ着後参上するか電話で御都合を伺ふかする心算ですが念の為この手紙を差上げ る事にしました
                                          草々不尽
   四月卅日
                                       芥川龍之介
                                        菊 池 寛
  永見徳太郎様」

 よく調べられています。特に芥川龍之介の長崎訪問に関しては、秀逸です。上記の新名規明氏の「芥川龍之介の長崎」でも参考図書とされているようです。

【永見 徳太郎(ながみ とくたろう、1890年(明治23年)8月5日 - 1950年(昭和25年)10月23日)】
 明治23年8月5日生まれ。生地長崎で倉庫業をいとなむ傍ら、長崎を訪れる芥川竜之介ら著名人と交流、長崎の紹介につとめる。南蛮美術品の収集・研究家としても知られています。昭和25年10月23日死去。60歳。号は夏汀。著作に戯曲集「愛染艸」,「長崎版画集」など。(ウイキペディア、コトバンク参照)

写真は 大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」、長崎文献社版(1988年発行)です。「続長崎南蛮余情」が1990年に発行されています。

「長崎駅」
<長崎駅>
 大正8年5月4日、芥川龍之介と菊池寛は長崎旅行に出かけます。長崎での滞在先の永見徳太郎宛の手紙では、4月30日出発の予定が5月4日に変り、特急で出発すると書かれています。大正3年(1914)12月に東京駅が開業していますから、二人は東京駅始発の特急に乗ります。

 「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より
「4日(日) 菊池寛とともに長崎旅行に出かける【569】。
 二人は車中、文芸論を戦わせたが【「澄江堂雑記」L】、菊池は風邪による頭痛のため岡山で下車し、芥川は尾道で途中下車しながら一人で長崎に向かった【文献12】。
  ▽「芥川龍之介氏 菊池寛氏と共に三十日出発向ふ 二週間の予定にて京阪より長崎に赴くと」〈4月28日「よみうり抄」〉
  ▽「芥川龍之介、菊池寛両氏 三十日出発大阪に立寄り長崎に向ふ筈」〈2日「美術と文芸」〉
5日 長崎に到着【569・570】。…」

 年譜では、二人は4日東京を出発、5日長崎着、菊池寛は体調不良のため、岡山で下車と書かれています。

「芥川龍之介全集 18巻 書簡」より
「569 4月30日 永見徳太郎 長崎市銅座町二○ 永見徳太郎様 四月卅日 田端四三五 芥川龍之介・菊池寛
拝啓
友人近藤君に紹介を願った所早速御親切に電報を頂き難有く御礼申します 実は今卅日出発のっもりで居りましたがいろいろ差支へが起って来月四日の特急で立つ事になりました どうか御地到着の際はよろしく御ひきまはし下さい いづれ着後参上するか電話で御都合を伺ふかする心算ですが 念の為この手紙を差上げる事にしました
                  草々不宣
   四月卅日                            芥川龍之介
                                     菊 池  寛
  永見徳太郎様」

 ここでは、4月30日出発の予定が、5月4日の特急に変更したと書かれています。

・大正4年と大正10年の時刻表しかありませんので、それぞれ見比べて見ました。
 <大正4年3月の時刻表>
 東京駅発 特別急行 8時(4日)→岡山駅 0時34分(5日)→下関駅着 9時38分(5日)
 下関→連絡船→門司
 門司駅発 急行 10時50分→長崎駅着 17時10分(5日)
 <大正10年8月の時刻表>
 東京駅発 特別急行 9時30分(4日)→岡山駅0時33分(5日)→下関駅着 9時38分(5日)
 下関→連絡船→門司
 門司駅発 急行 10時45分→長崎駅着 17時15分(5日)

 大正10年の方が東京−岡山間の所用時間が1時間半程早くなっています。

 大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」から
「… 前記書簡のように、本来芥川と菊池はそろって長崎へ行く予定であったが、菊池は車中、神戸付近から激しい頭痛をおぼえて途中下車し、岡山、尾道、下関でそれぞれ一泊したあと、芥川に二日ほど遅れて長崎へ着いた。…」
 菊池寛が岡山で下車したと書かれていますので、原文を探してみました。

 菊池寛の「長崎への旅」から
「… 族行に出る前の日の三時頃に、久米正雄が久し振に尋ねて来た。病気が癒つてから初ての訪問であつたので、ついつい話が長くなつて夜の十時頃迄、喋べつて行つた。
 歸る時、春日町迄送つて出た序に神田にの古本屋へ行つたのが悪かった。その時は五月の初旬であつたが、可なり寒かつたので感冒を引いたと見え、翌日汽車に乘つて神戸あたり迄来ると、頭が張り裂けるやうに痛んで来た。長崎へ直行する筈だつたのだ。
 流行性感冒以来、病気に就いては極端に憶病になつて居る。此儘、長崎へ行つて病みついたりしては事だと思つたので、芥川に一足先へ行つて貰つて、自分は岡山で一旦下車することにした。つい病気が重くなつたら、故郷の讃岐へ歸つて養生する積であつた。
 別れ際に、芥川が「君は讃岐で生れたのだから、讃岐へ死にゝ歸ると云ふ譯になるのぢやないかなあ」と、云つた。
自分も一寸そんな気がして居た。
 汽車を降りて見ると、頭痛が半分以上、ケロリと癒つだのには、駭いた。汽車に長く乘つて居たので頭が痛み出しだの
ぢやないかと思ふ。が、頭を振つて見ると、やつぱり底の方にある微かな痛みを感じた。
 驛前の宿屋へ出鱈目に飛び込んだら、可なり汚い六疊の部屋に通された。床の間もない汚い部屋だ。それでも此の宿屋ぢや一番上等の部屋らしい。金毘羅参りか何かの團體が宿り合せて居て、頻りにガヤガヤ云つて居る。何でも團體の客が酒を出せと云ふと、宿屋の番頭が、「團體の方には、お酒は現金でなければ差上げられない」と、云つて居るらしい。それでも疲れて居るので、グツスリと寢てしまつた。翌くる朝起きて見ると、團體の連中が出立した後と見え、番頭と女中とが座敷の掃除をしながら頻りに團體客の悪口を云つて居る。酒代なども現金で取つたればこそ取れたのだと云ふやうな事を云つて居る。頭が少し重い。芥川と一緒に居ると長崎迄もと云ふ元気はあつたが別れると長崎へ行くのが少し億劫になつた。それに頭の重いのも少し心配だ。今日は、尾の道邊でもう一泊宿つて、頭がスツカりよくなつてから、長崎へ行かうと云ふ気になる。岡山の街をぶらぶら散歩して居ると、古本屋に「河内十人斬」と云ふ古い讀本が出て居たので、五錢出して買つた。自分達の少年時代に「のぞきからくり」などに仕組まれて、我々を怯えさせたものだ。熊太郎彌五郎と云ふ加害者の名を、今でも覺えて居るので、つい買ひたくなつたのだ。
 午後の汽車で、西を指した。鞆の津と云ふ所は、少年時代から懷しく思つて居るので、是非一晩宿りたいと思つたが、
福山から支線へ乗換なければならないので、割愛した。
 尾道で降りる事にした。東京を立つ時、新聞の文藝欄で、葛西善哉氏が尾道を立つて、東京迄徒歩旅行すると云ふ消息を讀んだ。志賀直哉氏も、尾道に住んだ事があるさうだ。驛前の族館へ出鱈目に飛込んだ。座敷へ通されて、「海は近いかい」と訊くと、「海なら障子を明けると直ぐ眼の下です」と、云つたので非常に嬉しかつた。いかにも障子を開けると、靜かな港の景色が一眼に見渡された。夫は、瀬戸の内海にしか見られないやうな小さい靜な潮の匂の高い港だ。自分の故郷の讃岐の港と、色々な點でよく似て居る。内海通ひの汽船が、波を切る爽やかな晋を立てながら、入つて来る。いゝ心持だつた。寝る前に、街中を一廻りした。狹いけれども落着いた靜ないゝ街だ。夜寝て居ると、陸から沖にかゝつて居る船を呼ぶ聲に夢を破られた。「神榮丸よ」とか、何とか云つて呼んで居る聲が、港の靜な空気を淋しく搖がして居る。波の音などは、少しも聞えない。尤も、自分は叙景などは至つて拙いから、こんな事はいくら書いたつて始まらないから、此の位でよして置かう。
 朝割合に早く起きて見ると、いゝ朝だつた。海の潮は底まで澄み切つて居る。四本マストの素的に恰好のいゝ帆前が眼の前にかゝつて居る。昨夜の内に入港したものらしい。小歌島とか云ふ島が、つい目の前に横はつて居て、港は河のやうに細長く狹い。
 午前の汽車で、叉西に向つた。やはり下の關迄まで行つて宿る積だつた。何だか長崎が馬鹿に遠い處にあるやうに思はれて、仕方がない。此邉の山陽線は、初て乗るのだ。廣島を通つた。宮島へ着くと、巌島が眼の前に見える。餘程降りて見ようと思つたが、面倒くさいのでよした。然し此邊、瀬戸内海に添うて居る線路は、可なりいゝ。   … …  …
 その晩下間で宿つて、あくる日愈々決心して長崎迄乘る事にした。八幡の製鐵所の得體の知れない壮大さは、一寸よ
かつた。博多の千代の松原と云ふ所は、老松が生ひ連つて居る松林かと思つたら、十年にもなるかならないか分らない松ばかりだつたので、大に意外に思つた。博多から長崎迄の間車窓から見ると、大抵の山はある高さ迄、段々に開墾されて居る。あんな所まで開墾しなければ喰へないのかと思ふと少し氣の毒になつた。…」

 岡山駅前の宿泊した旅館を探すのは一寸無理なようなので諦めました。それにしては夜中の12時によく旅館が開いていました、それにこの時間でよく宴会が続いていたものです。尾道駅前の旅館に関しては”海なら障子を明けると直ぐ眼の下です”との事で、「東京物語」を思い出してしまいました。たしか、竹村家ですね、ひょっとしたら同じかもしれません。菊池寛は、岡山、尾道、下関と三泊していますので、長崎到着は5月7日夕方のはずです。

上の写真が当時の長崎駅です。昭和20年4年の空襲で被害を受け、昭和20年8月の原爆で焼失しています。現在の駅舎の写真を掲載しておきます。この駅舎も高架化で変ってしまいます。

「永見家跡」
<永見家>
 芥川龍之介は近藤浩一路の紹介で長崎では資産家であった永見徳大郎邸に滞在しています。芥川龍之介と近藤浩一路については、大正9年6月に「近藤浩一路氏」というエッセイを書いており、その中で”近藤君に始めて会ったのは、丁度去年の今頃”と書いてりますので、出会って直ぐに永見徳大郎を紹介して貰ったものとおもわれます。

 芥川龍之介の「近藤浩一路氏」です。
「 近藤君は漫画家として有名であった。今は正道を踏んだ日本画家としても有名である。
 が、これは偶然ではない。漫画には落想の滑稽な漫画がある。画そのものの滑稽な漫画がある。或は二者を兼ねた漫画がある。近藤君の漫画の多くは、この二者を兼ねた漫画でなければ、画そのものの滑稽な漫画であった。唯、威儀を正しさえすれば、一頁の漫画が忽ちに、一幅の山水となるのは当然である。
 近藤君の画は枯淡ではない。南画じみた山水の中にも、何処か肉の臭いのする、しつこい所が潜んでいる。其処に芸術家としての貪婪が、あらゆるものから養分を吸収しようとする欲望が、露骨に感ぜられるのは愉快である。
 今日の流俗は昨日の流俗ではない。昨日の流俗は、反抗的な一切に冷淡なのが常であった。今日の流俗は反抗的ならざる一切に冷淡なのを常としている。二種の流俗が入り交った現代の日本に処するには、――近藤君もしっかりと金剛座上に尻を据えて、死身に修業をしなければなるまい。
 近藤君に始めて会ったのは、丁度去年の今頃である。君はその時神経衰弱とか号して甚意気が昂らなかった。が、殆丸太のような桜のステッキをついていた所を見ると、いくら神経衰弱でも、犬位は撲殺する余勇があったのに違いない。が、最近君に会った時、君は神経衰弱も癒ったとか云って、甚元気らしい顔をしていた。健康も恢復したのには違いないが、その間に君の名声が大いに挙り出したのも事実である。自分はその時君と、小杉未醒氏の噂を少々した。君はいが栗頭も昔の通りである。書生らしい容子も、以前と変っていない。しかしあの丸太のような、偉大なる桜のステッキだけは、再び君の手に見られなかった。――」

 近藤浩一路は山梨の名家のうまれで、明治17年ですから芥川龍之介よりは8歳年上です。東京美術学校西洋画科卒業後の大正4年(1915)に読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当しています。漫画記者としては美術学校時代の同級生で朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評されています。その後の大正8年(1919)に日本美術院第6回展で初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向しています。丁度この頃、芥川龍之介と出会ったものとおもわれます。(岡本一平は「北大路魯山人を歩く」で魯山人が弟子入した岡本可亭の息子です)

 「芥川龍之介全集 年譜」より
「 長崎滞在中は、近藤浩一路から紹介された【569】永見徳大郎(長崎の名家)の世話になる。菊池ごとともに、市中見物をしたり、永見家所蔵の長崎絵心とを見たりして、大いに南蛮切支丹趣味を満足させた【570・菊池3・村松】。…」

 菊池寛の「長崎への旅」から
「… 到頭、長崎へ来た。芥川と豫て約束した通、長崎の銅座町の永見徳太郎氏の家で落合つた。芥川が近藤浩一路氏の紹介を貰つて、尋ねて来たのだが、永見氏は洋書家で俳人で而も少壮の實業家と云ふ可なり變つた愉快な人である。その上、長崎の草分けの一人で御朱印を預つた家とかで、芥川と自分とが寢た座敷は、御維新前に長崎奉行と英吉利公使とが談判の席に用ゐたとか云ふ由緒のある座敷だつた。
 永見氏の家で、平戸蘭館の圖だとか和蘭船圖などと云ふ南蠻趣味の旺溢して居る長崎繪を見せて貰つた。…」

 永見家は相当の旧家のようです。

右上の写真正面の3階建てパチンコ屋の附近が永見家跡です。大正13年発行の本の奥付に住所の記載がありまた。長崎市銅座町20番地です。


芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 4月 父親と京都・奈良を見物
9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
5月4日 菊池寛と共に長崎に出発
5月5日 長崎に到着
5月11日 大阪に向かう
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月 友人と共に関西旅行
         
大正11年 1922 ワシントン条約調印 30 4月28日 京都経由長崎に出発
5月5日頃まで京都に滞在
5月10日 長崎に到着、花屋旅館に滞在
5月29日 長崎から帰京、鎌倉泊
6月1日 田端に戻る
         
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
34 4月 神奈川県の鵠沼で静養
昭和2年 1927 金融恐慌
地下鉄開通
35 7月24日 睡眠薬で自殺



「大浦天主堂」
<大浦天主堂>
 芥川龍之介は長崎で、菊池寛が到着する7日までに大浦天主堂等を尋ねています。大浦天主堂でフランス人の神父さんと小半日話してります。

 「芥川龍之介全集 24巻 年譜」より
「5日 長崎に到着【569・570】。
6日 大浦天主堂を訪ね【571・572】、ガラシー神父と「小半日」話し込む【570】。【大谷】…」

 神父さんが日本語ができたか、フランス語で話したのだとおもわれます。芥川龍之介はフランス語については相当知識があったようです。


「芥川龍之介全集 18巻 書簡」より
「570 5月7日 芥川 東京市外田端四三五 芥川様 七日夜(消印八日) 龍之介 (絵葉書)
長崎へ来た 永見さんの厄介になった 長崎はよい所にて甚感服す 支那趣味と西洋趣味と雑居してゐる所殊に妙なり異人、支那人多勢ゐる町は大抵石だたみ 橋は大抵支那風の石橋ロオマ旧教のお寺が三つある皆可成大きい昨日その一つ(大浦の)へ行きガラシーと云ふフランスの坊さんと小半日話したりかへりに町を歩き掘出し物をした故そちらへ送る 以上」

 年譜の元ネタは書簡ですね!

左上の写真が大浦天主堂です。原爆でも一部が破損しただけで焼失を免れています。


芥川龍之介の長崎地図 (甲)(立原道造の地図を流用)



「旧浦上天主堂」
<浦上の教會堂>
 菊池寛の「長崎への旅」によると、翌日(8日か?)芥川龍之介と菊池寛は「浦上天主堂」を訪ねたと書かれています。芥川龍之介全集の年譜には「浦上天主堂」を訪ねたとは書かれていません。

 菊池寛の「長崎への旅」から
「 あくる日は、芥川と二人で、浦上の教會堂を見に行つた。浦上地方は切支丹御法度時代に尚邪宗門の徒が、隠密の間にその信仰を績けて来た地方で、御維新になつて、信教の自由を許されると同時に、天主教復活の先鋒となつた所である。
從つて、信者が煉瓦一枚宛を寄進して成つたと云ふ教會堂も、素睛らしく大きい。薄日のさす教會堂の内部には、乳白色の柱が幾本となく立ち竝んで居る。その柱の下を、一人の尼僧が動物か何かのやうに、うごめきながら、所り廻つて居る。最も自分を感動させた情景は、折よく其處へ人つて来た百姓姿の二人の老婆が、坐りながら十字を切つた光景であつた。本願寺の本堂で、田舎のお婆さんが珠數をつまぐるのと、趣は餘り變つて居ないが、珍らしいので自分を感動させたのだらう。…」

 上記の”あくる日”とは8日のことですね。浦上天主堂についてはかなり書いており、そうとう感激したのだとおもいまあす。

 「芥川龍之介全集 年譜」より
「6日 大浦天主堂を訪ね【571・572】、ガラシー神父と「小半日」話し込む【570】。遅れて到着した菊池寛とともに長崎県立図書館を訪れ、芳名録に署名する【大谷】。
 長崎滞在中は、近藤浩一路から紹介された【569】永見徳大郎(長崎の名家)の世話になる。菊池ごとともに、市中見物をしたり、永見家所蔵の長崎絵心とを見たりして、大いに南蛮切支丹趣味を満足させた【570・菊池3・村松】。当時、長崎県立病院の精神科部長だった斎藤茂吉とも会った【斎藤(茂)1】。
11日(日) 長崎を出発して大阪に到着【576】。…」

 芥川龍之介関連の書籍には「浦上天主堂」を訪ねたとは書かれていませんので、年譜には記載しなかったとおもわれます。

左上の写真が大正8年当時の「浦上天主堂」です。当時の「浦上天主堂」は大正3年に完成したもので、まだ両側の尖塔はありませんでした。尖塔が完成するのは大正14年になります。この「浦上天主堂」は爆心地に近く、原爆で壊滅的な状態になります。被爆後の「浦上天主堂」と、現在の「浦上天主堂」の写真を掲載しておきます。

「長崎県立図書館」
<長崎県立図書館>
 芥川龍之介と菊池寛は「浦上天主堂」訪問後、長崎県立図書館を訪ねています。ただ、長崎県立図書館に残っている芳名録を見ると、芥川龍之介は5月6日、菊池寛は8日となっています。又、面白いことに菊池寛と同じ8日には柳田国男も記帳していることです。この三人は長崎県立図書館で会うことになります。何故、皆がこの長崎県立図書館を訪ねるかと云うと、ここの館長が永山時英で、東京帝大卒、第七高等学校の教授をへて館長になった方だからです。長崎のキリシタン文化や対外史料の研究ではかなり有名な方のようです。

  「芥川龍之介全集 年譜」より
「6日 大浦天主堂を訪ね【571・572】、ガラシー神父と「小半日」話し込む【570】。遅れて到着した菊池寛とともに長崎県立図書館を訪れ、芳名録に署名する【大谷】。
 長崎滞在中は、近藤浩一路から紹介された【569】永見徳大郎(長崎の名家)の世話になる。菊池ごとともに、市中見物をしたり、永見家所蔵の長崎絵心とを見たりして、大いに南蛮切支丹趣味を満足させた【570・菊池3・村松】。当時、長崎県立病院の精神科部長だった斎藤茂吉とも会った【斎藤(茂)1】。
11日(日) 長崎を出発して大阪に到着【576】。…」


 柳田国男の「故郷七〇年 改訂版 甲寅叢書」より(定本 柳田国男集 別巻 第3)
「… 購贋者の中での珍らしい人は、まだ學生時代の芥川龍之介がゐたことである。後に世間で芥川の名を見るやうになつた時、「どこかで會つたことのある名前だが」と思つたりしたが、實は甲寅叢書の熱心な讃者の一人であつた。ずつ
と後のことであるが、有名な「河童」といふ小説は、私の本を讃んでから河童のことが書いてみたくなつたので、他に種本はないといふことを彼自身いつてゐた。
 芥川にはじめて會つたのは、彼がもう[人前になり、大分偉くなつてからであつた。ある時長崎の圖書館に行つて、あそこにある古い資料を見てゐると、今日東京から本を見に來てゐる人があると館長がいふ。誰だらうと思ひっゝ、書庫に人つてゆくと。向うから二人連で、ひよろくと背の高いのと、背の低い二人がやつて来た。「あの人です」と館長が囁くので、お辭儀をしたのが初對面であつた。非常に懷しく思つて「あなたは甲寅叢書の讃者でしたね」といふと、「えゞあれは拜見してをります」といつてゐた。
 連れの人は菊池寛で、この二人連れは背が高いのと横に甼たいので、そのころ浅草の十二階とその横にあつたパノラマに喩へて「パノラマと凌雲閣」とよくいはれてゐた。長崎の物持の好事家で永見徳太郎といふ人の所に泊つてゐるといふことであつた。
 それつきり。手紙を貰ふことはあつても、會ふ機會はなかつた。ところが昭和二年であつたか、芥川が亡くなるちよつと前に菊池寛が星ヶ岡茶寮に招んでくれたことがある。その時に芥川も來てゐて、菊池が命令的に「おい芥川君、君柳田さんを逞れ」といつたので、二人で話をしながら歸つた。二人が「少學生全集」を出してゐる時だつたから「どうして君、あんなものに手を突つ込んだの」ときくと「えゝあれは菊池君ですよ、あの人は強い人で、何でも私にさせるんです」といふやうな、少し泣き言じみたことをいつて別れたが、それから間もなくの自決であつた。…」

 この記載で、芥川龍之介と菊池寛が一緒に長崎県立図書館を訪ねたことが分かります(芥川龍之介は2回訪ねた?)。それにしても、「パノラマと凌雲閣」とは面白いです。

左上の写真が現在の長崎県立図書館です。戦前から場所は変っていないようで、空襲や原爆にも堪えて残ったそうです。山影にあり、場所が良かったせいで免れたようです。

「長崎大学附属病院正門跡」
<長崎県立病院の精神科部長だった斎藤茂吉>
 菊池寛の「長崎への旅」を読むと、芥川龍之介と菊池寛は浦上の教會堂(浦上天主堂)を見た後、”長崎の醫學専門學校へ行つて斎藤茂吉と會つた”と書いています。当時、齊藤茂吉は詩歌でそうとう有名だったのだとおもわれます。

 齊藤茂吉は第一高等学校、東京帝国大学医科大学卒、大正6年(1917)1月、東京帝国大学医科大学助手、付属病院、巣鴨病院をすべて辞職して官立長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)精神病科第2代教授になっています。(ウイキペディア参照)

 菊池寛の「長崎への旅」から
「… あくる日は、芥川と二人で、浦上の教會堂を見に行つた。浦上地方は切支丹御法度時代に尚邪宗門の徒が、隠密の間にその信仰を績けて来た地方で、御維新になつて、信教の自由を許されると同時に、天主教復活の先鋒となつた所である。從つて、信者が煉瓦一枚宛を寄進して成つたと云ふ教會堂も、素睛らしく大きい。薄日のさす教會堂の内部には、乳白色の柱が幾本となく立ち竝んで居る。その柱の下を、一人の尼僧が動物か何かのやうに、うごめきながら、所り廻つて居る。最も自分を感動させた情景は、折よく其處へ人つて来た百姓姿の二人の老婆が、坐りながら十字を切つた光景であつた。本願寺の本堂で、田舎のお婆さんが珠數をつまぐるのと、趣は餘り變つて居ないが、珍らしいので自分を感動させたのだらう。
 歸りに、長崎の醫學専門學校へ行つて斎藤茂吉と會つた。
 夜、有名な丸山の遊廓を見に行つた。傾国の美人が揃つて居るのかと思つたら、天草あたりの漁師の娘らしい鬼とも組まんづ式の女ばかりであるのには駭いた。(大正八年六月)…」

 大正8年6月に書いていますから、旅行に行った翌月で、記憶も定かのころですので、かなり正解だとおもわれます。

 「芥川龍之介全集 年譜」より
「6日 大浦天主堂を訪ね【571・572】、ガラシー神父と「小半日」話し込む【570】。遅れて到着した菊池寛とともに長崎県立図書館を訪れ、芳名録に署名する【大谷】。
 長崎滞在中は、近藤浩一路から紹介された【569】永見徳大郎(長崎の名家)の世話になる。菊池ごとともに、市中見物をしたり、永見家所蔵の長崎絵心とを見たりして、大いに南蛮切支丹趣味を満足させた【570・菊池3・村松】。当時、長崎県立病院の精神科部長だった斎藤茂吉とも会った【斎藤(茂)1】。
11日(日) 長崎を出発して大阪に到着【576】。夕方、菊池寛とともに、挨拶を兼ねて大阪毎日新聞社を訪ねる。同社の編集会議の例会が開かれており、その席でスピーチをした【584・薄田】。
  ▽「芥川龍之介氏 菊池寛氏と相携へて長崎に遊び居たるが帰途当地に立ち寄り滞在し居れり」〈14日「文芸と美術」〉
15日 京都で葵祭りを見物するか【576】。
16日 午前0時過ぎ、タクシーで嵐山の渡月橋へ月見に出かけるなど、夕日未明まで祇園で遊ぶ【579・585】。
18日(日) 夜、長崎・大阪・京都方面の旅行から帰宅する【582】。
  ▽「芥川龍之介氏 長崎からの帰途人阪に逞寄ったが明日頃帰京する」〈16日「文芸消息」〉
  ▽「芥川龍之介氏 去る十九日関西旅行を了へ帰京せり」〈22日「よみうり抄」〉…」

 芥川龍之介は5月12日大阪着、大阪、京都に滞在し18日帰京しています。

 <大正4年3月の時刻表>
 長崎駅発11時20分→門司駅着17時59分(一日一本の門司行急行);5月11日
 門司→下関間は連絡船
 下関駅発19時10分→大阪駅着8時28分(東京行特急);5月12日
 <大正10年8月の時刻表>
 長崎駅発11時25分→門司駅着17時55分(一日一本の門司行急行);5月11日
 門司→下関間は連絡船
 門司駅発19時10分→大阪駅着8時17分(東京行特急);5月12日

 大正4年、10年の時刻表ともあまり変りません。。長崎を昼前に出発して、大阪には翌日の朝到着します。

右上の写真は旧長崎大学医学部附属病院正門跡の碑です。この右側の坂を上がったところに大学病院がありました。浦上天主堂からは南に850m程です。昭和3年の地図によると、病院が西側、大学が東側にあったようです。現在は医学部が300m北側に、附属病院の入口が北側に移っています。


芥川龍之介の長崎地図 (丙)(昭和3年)