kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年3月21日

akutagawa-title1.gif


●芥川龍之介の鎌倉・横須賀を歩く 2003年5月11日 V01L02
 今週から「芥川龍之介を巡る」を少しづつ改版していきます。最初の掲載が2年前ですので、今読むと不十分なところがかなり多く、内容も今一歩というところです。もう少し詳細な内容にするために大幅な追加更新を行います。まず最初は未掲載分の「芥川龍之介の鎌倉・横須賀を歩く」から掲載を始めたいとおもいます。

akutagawa1w.jpg<江ノ島電鉄>
 芥川龍之介は大正5年7月、東京帝国大学を卒業しますが、すぐに就職口が見つからず、一高の恩師畔柳教授の紹介でその年の12月から横須賀の海軍機関学校に勤めます。東京から横須賀までは一時間以上掛かり遠すぎるため、鎌倉の江ノ島電鉄の沿線に下宿します。江ノ島電鉄は明治35年(1902)に藤沢−片瀬(現 江ノ島)間が最初に開通します。藤沢−鎌倉(当時は小町)間が全通したのは明治43年11月です。江ノ島電鉄の当時の鎌倉駅は横須賀線を潜って八幡宮二の鳥居前、つまり横須賀線鎌倉駅の東側、若宮大路にあったわけです。現在の西側に移ったのは昭和24年です。芥川龍之介が鎌倉に下宿していたのは大正5年から8年ですから、横須賀線の鎌倉駅で下りて若宮大路にある江ノ島電鉄鎌倉駅から乗っていたわけです。

左の写真は江ノ島電鉄和田塚駅です。電車はどんどん新しくなっていくのですが、線路はあいかわらず単線で(もう複線にするのは不可能?)、電車同士のすれ違いが大変です。でもこのすれ違いと単線がノスタルジックでなんともいえませんね!!

芥川龍之介の「鎌倉・横須賀」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

芥川龍之介の足跡

作  品

大正5年
1916
世界恐慌始まる
24
7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
鼻、芋粥、手巾
大正6年
1917
ロシア革命
25
9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居 羅生門
大正7年
1918
シベリア出兵
26
2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
地獄変
大正8年
1919
 
27
3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
第三短編集

akutagawa3w.jpg<野間西洋洗濯店の離れ>
 芥川龍之介が鎌倉で最初に下宿したのが鎌倉町和田塚の野間西洋洗濯店の離れ(和田塚海浜ホテル隣)でした。当時の下宿付近のことを友人の松岡譲宛の手紙で知ることかできます。「…僕の所は和田塚の電車停車場からすぐだ和田塚までは電車の線路を歩いてくれば来られるからその先を図にする(線路は通行禁止の札が立ってるが歩いて差支へない)…」、”電車に乗れ”ではなくて、”電車の線路を歩いてこい”はどういうことなんでしょう。鎌倉から和田塚までは約1Kmですからたいした距離ではないんですが、昔の人は歩くのが普通だったのでしょうか。また手紙に一緒に書いた図では、和田塚駅からの途中に和田義盛戦死の碑が書いてあります。

左の写真辺りが鎌倉町和田塚の野間西洋洗濯店跡です(現在の由比ヶ浜4−8付近)。駅からの距離では和田塚駅からは400m、由比ヶ浜駅からは200m位なので、由比ヶ浜の方が近いのですが、鎌倉駅から歩いてくるのなら和田塚駅経由です。

akutagawa2w.jpg<海軍機関学校跡>
 戦前の海軍関係の学校は海軍兵学校、機関学校、経理学校の3つにわかれていました。旧制中学第四学年修了以上なら試験を受けることがてきたようです。芥川龍之介が勤めた海軍機関学校は、今で言う船舶関連のエンジニア養成学校だったようで、兵学校は本当の職業軍人、経理学校は名前の通りです。当時の学校の様子を夏目漱石の夫人鏡子さんに、「学校は格別面白くはありません時々まちがったことを教えて生徒につっこまれます生徒は皆勇猛な奴ばかりであらゆる悪徳は堂々とやりさえすればいつでも善になるかのごとき信念を持っています(ことによるとこの信念は軍人間の共通な信念かもしれません)だから私のあげ足をとるのでも私を凹ますのでも堂々とやっつけられますこんどの九日会(漱石の命日を記念する門人会)は金曜日になりますから出られないでしょう土曜日は朝授業がありますから…」、と書いて伝えています。また一方で内田百?閧フ「芥川龍之介雑記帖」では、「…その内に、機関学校の桜が咲いた。門を入った両側の、大木の並木に万朶(沢山の枝)の花が咲き乱れて、その突き当りに明るい海がまぶしい海を寄せている。…お午の食堂で、機関中将の船橋校長と芥川とが文学談を始めて、中中らちが明かなかった。「校長、そりや駄目です」と芥川が云った。「面白いという意味が違いますよ」老校長は芥川のいる方にまともに向かって、にこにこ笑いながらいつまでも負けなかった。「そんな事を云ったところがだ、つまり誰も読まんだろう。人が読まんでもいいかね」満堂の高等官達、即ち海軍士官の教官や職員と文官教授とが食堂の茶を飲み、煙草を吹かしながら、二人の議論を聞いているのである。老校長は面白がって、芥川にからまっているらしく、芥川は又それを承知して老閣下を一本きめつけようと掛かっている様子である。云っている事は他愛もない子供の議論のような事だけれども、両方とも攻撃的態度で話し合うのだから、果てしがつかない。」、なかなか面白いですね。その場にいたかったです。

右の写真左側が海軍機関学校跡です(現在は横須賀学院になっている一帯です)。ただしこの場所にあったのは大正12年までで、関東大震災による被害で再建せずに舞鶴に移転してしまいます。この写真の先に三笠公園があり、戦艦三笠があります。当時は京浜急行はまだ開通しておらず、横須賀線も横須賀駅止まりでした。

akutagawa21w.jpg<横須賀市汐入町五八〇番地の尾鷲方>
 鎌倉から横須賀の海軍機関学校に通うには遠すぎたようです。約一年弱で横須賀の汐入に引越します。横須賀の下宿のことを婚約者の塚本文さん宛に手紙を出しています。「学校と小説と両方一しょじゃ 実際少し仕事が多すぎます。だから将来は一つにする気もあります、もありますじゃない、気が大いにあるのです、もちろん一つにすれば小説ですね。教えるということは一体あまり私の性分には合っていないのです、希望を言えば、若隠居をして、本を読んだり小説を書いたりばかりしていたいんですが、そうも行きません が、いつか行かそうと思っています。…こんどの家は、お姿さんと女中と二人しかいない家です、横須賀ではかなり財産家だそうです、僕の借りているのは二階の八畳で家は古くても、落着いた感じのある所です、お婆さんは大分耳が遠いので話をすると必ずとんちんかんになります、今朝も僕が「もう七時でしょう」と言ったら「ええじきこの先にございます」と言いました、七時を何と間違えたんだか、いくら考えてもわかりません」、普通の文章ですね、やはり恋人に書くときは普通の人になってしまうみたいです。

左の写真の左側辺りが横須賀市汐入町五百八十番地尾鷲梅吉方跡(現在の汐入3丁目1番付近)です。手前に写っている川名米酒店は当時から変わっていませんので、ひょっとしたら芥川龍之介にお酒を届けていたかもしれませんね。

akutagawa23w.jpg<大町字辻の小山別荘内>
 芥川龍之介は大正7年2月、大正5年12月より婚約中だった塚本文子さんと田端の自宅で結婚します。結婚後しばらくは田端の実家から横須賀に通っていたようですが、あまりに遠いので3月末に再び鎌倉に引っ越します。鎌倉では大町字辻の小山別邸の借家を借り、新婚生活を始めます。芥川龍之介が昭和5年に文さん宛に書いたラブレターを紹介しておきます。「文ちゃんを貰いたいと云う事を、僕が兄さんに話してから何年になるでしせう。(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか しりません。)貰いたい理由は たった一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云う事です。勿論昔から 好きでした。今でも好きです。その外には何も理由はありません。…僕のやっている商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。…うちには 父、母、伯母と、とりよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は 文ちゃんが好きです。」、飾りのない、シンプルなラブレターです。小説家が書くラブレターというと美辞麗句が並びそうですが、芥川龍之介が書くとこうなるのですね。この頃の芥川龍之介について、小島政二郎は「芥川龍之介」(小説新潮、昭和35年12月号)で「…結婚したこのころ、鎌倉の大町辻というところに奥さんと二人で所帯を持った間が一番仕合せだったのではあるまいか。そこは小山という人の別荘の広い庭の一部に煙った離れで、離れと言っても独立家屋だった。八畳が二間、湯殿、台所、そのころは鎌倉には水道がなく、井戸水を樋で方々へ引くようになっていた。…」、と書いています。誰でも新婚時代が一番いいですよね!!!

右の写真の左側に少し入った辺りが芥川龍之介の借家跡です(現 鎌倉市材木座1−8付近)。少し入った先には元鶴岡八幡宮があり、そこに芥川龍之介旧居跡の案内板があります。当時の事を文さんは「追想 芥川龍之介」の中で、「大正七年二月に結婚して、三月から一年間はじめて住んだ家で、鎌倉大町にある離れを借りておりました。主人はそこから横須賀の海軍機関学校に通っておりました。八畳二間、六畳一間、四畳半二間で、水蓮の浮く池や、芭蕉があり、松の木のある広々とした庭がありました。…私は田端へ帰らず鎌倉にもっといたかったのですが…」、と書いています。二人で楽しかったのでしょう。


<芥川龍之介の鎌倉地図>

<芥川龍之介の横須賀地図>



【参考文献】
・追想 芥川龍之介:芥川文、中公文庫
・田端文志村:中公文庫、近藤富枝
・新潮文庫(大正の文豪):新潮社
・新潮日本文学アルバム(芥川龍之介):新潮社
・年表作家読本(芥川龍之介):河出書房新社
・文人悪食:新潮文庫、嵐山光三郎
・江東区の文化財:江東区教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・追跡 芥川龍之介 その横須賀時代:神奈川新聞社
 

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール