kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年3月21日

akutagawa-title1.gif


●芥川龍之介 (田端を歩く)
  初版2001年7月7日
  
二版2003年5月4日 <V01L02> 芥川龍之介のお墓の写真を入替
  芥川龍之介が亡くなった7月24日が近づいてきましたので「芥川龍之介を歩く」の第二回目として、大正2年から自殺する昭和2年まで14年間住んでいた田端を歩いてみたいと思います。

akutagawa21w.jpg<田端駅南口と不動坂>
 「学校へは少し近くなった その上前より余程閑静だ 唯高い所なので風あてが少しひどい 其代り夕がたは二階へ上ると霧の中に駒込台の燈火が一つづつともるのが見える ・・・ ただ厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂がある事だ それが柳町の坂位長くつて路幅があの半分位しかない だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難渋だ そこで雨のふるときには一寸学校がやすみたくなる やすむとノートがたまる此頃はそれに少しよわってゐる」
と田端のことを友人の恒藤恭への手紙に書いています。当時は田端駅裏口(現在の南口)から通っていた為、駅からすぐに急な坂道があり(不動坂で現在は階段になっている)坂を登り切ると反対に狭い下り坂(与楽寺坂)になります。与楽寺坂の途中を右に曲がった突き当たりが自宅でした。右に曲がって自宅へ行く途中を左に曲がると「上の坂」
です。天然自笑軒や下村薫医師宅への近道になります。

左の写真が「田端南口駅」です。昔の面影がある小さな駅舎です。現在は田端駅北口がメインの入口で、北口正面には田端文士村記念館があります。

akutagawa23w.jpg<芥川龍之介自宅跡>
拝啓今般左記に転居致侯間御通知申上候敬具
 田端停車場上白梅園向ふ横町
北豊島郡滝野川町宇田端四百三十五番地
 大正三年十月
                芥川 道 草
                芥川 龍之介

 は田端に移った時に芥川龍之介が出した移転通知です。(芥川龍之介全集より)
芥川龍之介が内藤新宿から田端に移ったのは大正3年10月末のことです。宮崎直次郎という道草の一中節の相弟子が田端に天然自笑軒という会席料理屋を出していて、その紹介でこの田端に移ってきています。近藤富枝の「田端文志村」によると
「田端435番地は、田端駅から歩いて6、7分、370坪ほどの三角形の地所で、山の上のために風当りが少々強いのが難であった。この土地に階下4間、他に納戸・湯殿・台所。階上に2間の家を新築した。なお、新原つるの話によると、芥川道草は読み書き、そろばんが達者で、田端にうつってからも依然芝新銭座の耕牧舎に通い、やはり銀行関係の業務をすべてまかせられていて、それは震災で耕牧舎の店が焼けるまで続いていたという。」
とあります。

右の写真の左側が芥川龍之介旧宅です。借地だった為、昭和20年4月13日の空襲で焼けたあと芥川家で購入できず現在は3軒に分割されています。写真の左側の数十メートル続いています塀は当時そのままだそうです。戦災で焼けなかった台所へ通じていた通用門は、3軒に分割された一軒でまだ残されています。

akutagawa26w.jpg<天然自笑軒跡>
 芥川道草の一中節の友人、宮崎直次郎が明治41年に出した割烹料理屋が天然自笑軒で、芥川龍之介も良く利用していたようです。
『もともと素人の好きではじめた仕事だから、器にも、座敷の掛けものにも、庭のたたずまいにも、趣味をふりかざして大いに凝った。料理人は新井という、会席料理なら日本一の腕という人をさがしてきて任せる。客室は六つ、予約以外の客はとらず、料理は七品で一人前五円、これが並の料金だった。やがて総理大臣若槻礼次郎、渋沢栄一などという、ときの顕官たちのひいきを受けるようになり、自笑軒の名は、有名になった。直次郎の娘で、芥川龍之介の義弟に当る新原得二(父は新原敏三、母はふくやふきの妹に当るふゆ)に嫁いだつるの話によると、「おわんに、お向に、口とりに、焼物に、煮ものに、おつぼ、小づけ、それにお口洗い、さいごにお抹茶をお出しいたしました。いったいに味がうすく、畳もちょんぼりでございました」というから、茶人むきの上品な献立だったと思われる。』

と近藤富枝の「田端文志村」に書かれています。当時は有名な料理屋さんだったみたいです。

左の写真の右側が天然自笑軒跡です。今も庭が大きなお宅で昔の趣をそのまま残しています。写真左側が芥川龍之介の掛かりつけの下島勲医師旧宅跡で、当時を忍ばせる跡は今はなにも残っていません。

akutagawa29w.jpg<芥川龍之介のお墓(慈眼寺)>
 自殺した昭和2年7月23日夜半から24日早朝の芥川家の様子を近藤富枝の「田端文志村」から引用しますと、
『・・・芥川の家で、彼は伯母ふきの枕もとへやってきて、「これを明日の朝に下島先生に渡してください」と言って、
 「自嘲 水沸や鼻の先だけ暮れ残る」 龍之介
という自句を書いた短冊を渡し、一時半ごろ寝室にひきあげた。そのあとねまきに着がえ、ふとんの中で聖書を広げた。ニ十四日未明に雨が降り出した。下島勲はその音を夢うつつにききながら、心地よい涼しさに眠りこんでいた。と玄関で聞きなれた芥川の伯母の声がする。妻のはまが出ている。「変だ」とか「呼んでも答えがない」などという断片が耳に入る。下島はギョッとして床の上に起き直った。芥川の家へいく道はぬかり、あわてる下島の足を滑らせ、何度も転びそうになった。「すぐ一緒にきて下さい」 小穴の下宿新昌閣の部屋の外で、芥川の甥着巻義敏の声がする。小穴はとび出した。「ほんとにやったのか」「どうもそうらしいんです」 小穴が、義足をつけ芥川家へかけつけると、龍之介の枕頭に下島がいた。二本目の注射をすませ、彼は注射器を片づけているところで、「とうとうやってしまいましたなア」 と小穴に声をかけた。』

と、危急な様子が良く書かれています。

 お墓のある慈眼寺は、元々は日蓮宗で立野山慈眼寺と称し、元和元年(1615)に深川六間堀(現在の新大橋3-8付近)に寺を建立したことに始まります。元禄6年(1693)に深川六間堀から猿江2丁目に移り、明治45年(1912)豊島区巣鴨(現在地)に再移転しています(その際、山号を正寿山と改めた)。慈眼寺を訪ねるには巣鴨の駅から行くのですが、細い道と一方通行が多くて車での訪問は難しいと思います。染井霊園をすぎて「振袖火事」で有名な本妙寺の裏手に慈眼寺はあります。芥川龍之介の墓石は本人の遺言により愛用の座布団の同じ形と寸法で作られています。

右の写真が芥川龍之介のお墓です。右側が芥川家のお墓で、左側が芥川龍之介が愛用の座布団と同じ形をしたお墓です。

田端周辺地図



【参考文献】
・田端文志村:中公文庫、近藤富枝
・新潮文庫(大正の文豪):新潮社
・新潮日本文学アルバム(芥川龍之介):新潮社
・年表作家読本(芥川龍之介):河出書房新社
・文人悪食:新潮文庫、嵐山光三郎
・江東区の文化財:江東区教育委員会

【交通のご案内】
・田端:山手線/京浜東北線「田端駅」下車徒歩5分

【住所紹介】
・慈眼寺:東京都豊島区巣鴨5-35-33


 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール