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最終更新日:2018年06月07日

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●生誕の地から府立三中までを歩く
  初版2001年6月2日、二版2003年5月30日 <V01L02>

 前回の「芥川龍之介を巡る」は「鎌倉・横須賀」でしたが、今回は最初に戻りまして、生誕の地から、両国、江東尋常高等小学校、府立第三中学校までを歩いてみました。二年前の当初の掲載内容からは大幅に追加・更新しています。

 「広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男の外には誰もいない。」は芥川龍之介の「羅生門」の書き出しです。芥川龍之介の文章は華麗で、頭の良さがそのまま文章に出ており、永井荷風とは違う意味での文章の高い完成度を持っている様に思えます。菊池寛に「人生を銀のピンセットで弄んでゐる」と評されていますが、同時に、「玲瓏と完結したぬきさしならぬ行間に、ふときざす情念のゆらぎがあり、日本人になつかしい抒情がただよう。虚構の花の空間に、身をひそめた優しい花に龍之介の素顔も彷彿する」[ (作家読本(芥川龍之介)]とも言われています。

左の写真は芥川龍之介の「羅生門」初版本です。いつもの通り、近代文学館の新選名著復刻版です。なかなか洒落た黄色の表紙で、当時としては画期的なデザインではなかったのでしょうか。村上春樹の「ノルウエーの森」の表紙が赤とグリーン(上巻、下巻で)で、なかなか良かったのを覚えていますが、同じようなインパクトがありますね。”羅生門”正しくは”羅城門”は平安京の南北の中心の朱雀大路と、一番南の九条通りが交わるところに建てられていました。羅城門の東に東寺、西に西寺を配していましたが、現在残っているのは東寺だけで、あとは記念碑が立っているのみです。芥川龍之介はなぜ羅生門にしたのでしょうか……!

芥川龍之介の年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

芥川龍之介の足跡

作  品

明治25年
1892
 
0
3月1日 東京市京橋区入船町八丁目一番地で生誕
10月 母フクの実家芥川家に引き取られる
 
明治26年
1893
大本営条例公布
1
実父新原敬三は芝区新銭座町十六番地に転居  
明治30年
1897
金本位制実施
5
4月 江東尋常小学校附属幼稚園に入学  
明治31年
1898
 
6
4月 江東尋常小学校に入学  
明治35年
1902
日英同盟
10
4月 江東小学校高等科に進む
11月 実母フク死去
 
明治37年
1904
日露戦争
12
8月 新原家から除籍され、芥川家に養嗣子となる  
明治38年
1905
ポーツマス条約
13
4月 東京府立第三中学校に入学  
明治43年
1910
日韓併合
18
3月 府立第三中学校を卒業
 

<生誕の地>
 芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。

左の写真が芥川龍之介生誕の地です。写真正面が聖路加看護大学です。写真の左側に中央区教育委員会が建てた芥川龍之介生誕の地の記念碑が建っています。緑が多くて散歩には丁度良い所です。

<芥川家>
 出生の後、母フクが突然発狂します。そのため龍之介は母フクの実家、芥川家に引き取られます。「新しい僕の家の庭には冬青(もち)、榧(かや)、木斛(もっこく)、かくれみの臘梅(ろうばい)、八つ手、五葉の松などが植わっていた。」と龍之介は新しい家のことを「追憶」の中で書いています(言葉が難しいですね)。芥川家は代々江戸城の御数寄屋坊主(茶道全般を取り仕切るお役)を勤めていた由緒ある家柄で、そのため、茶道だけではなく、画、俳句、歌舞伎等、芸術全般に対して理解があったものと思われます(龍之介の文学の道に大きく影響していますね)。芥川龍之介は「追憶の」中で幼稚園の頃のことを、書いています。「僕は幼稚園へ通いだした。幼稚園は名高い回向院の隣の江東小学校の附属である。この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中に挾《はさ》んだのを覚えている。それからまたある円顔の女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今になって考えてみると、なぜ彼女を好きになったか、僕自身にもはっきりしない。しかしその人の顔や名前はいまだに記憶に残っている。…」、幼稚園の頃の好きな人の事は私も覚えていますよ!!

右の写真が龍之介が引き取られた本所区小泉町15番地(現在の墨田区両国3丁目22番11号)で、写真左右が京葉道路(当時は小泉町大通り)です。芥川家が所有していた土地を買った方が今もそのまま住んでおられる様なので、サンクスのある建物が芥川家の住んでいた所になります。サンクスとふぐ料理屋の間の細い道が「横綱通り」で、両国駅東口から京葉道路への通り道で、両側は小さな飲み屋が並んでいます。

<江東尋常高等小学校(現 両国小学校)>
 芥川龍之介は両国の家からすぐ側の江東尋常高等小学校に通います。「僕は小学校へはいった時から、この「お師匠さん」の一人息子に英語と漢文と習字とを習った。が、どれも進歩しなかった。ただ英語はTやDの発音を覚えたくらいである。それでも僕は夜になると、ナショナル・リイダアや日本外史をかかえ、せっせと相生町二丁目の「お師匠さん」の家へ通って行った。It is a dog−ナショナル・リイダアの最初の一行はたぶんこういう文章だったであろう。…」、よく覚えていますね。

左の写真が江東尋常高等小学校、現在の両国小学校です。芥川家からわずか150m位の近さです。写真正面に芥川龍之介の碑が建てられています。「杜子春」のなかから、「――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩《こも》つてゐました。…」、小学生向きの分かりやすい文章を選んで記念碑にしています。

<府立第三中学校(現 両国高校)>
 明治38年、芥川家から少し離れた亀戸に近い府立第三中学校に通います。「僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸の大竹という道場へもやはり寒稽古などに通ったものである。中学で習った柔術は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。僕は中学の仕合いへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、たちまちみごとな巴投げを食い、向こう側に控えた生徒たちの前へ坐っていたことを覚えている。当時の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だった。西川は今は鳥取の農林学校か何かの教授をしている。僕はそののちも秀才と呼ばれる何人かの人々に接してきた。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だった。」、浜町河岸は今の明治座近くの浜町公園付近です。芥川龍之介が最初に秀才とおもった西川栄次郎は府立第三中学校を首席で卒業し第一高等学校二部乙(農科)に進みます。二番は勿論、芥川龍之介です。

右の写真が府立第三中学校、現両国高校です。こちらも芥川龍之介の碑があります。「もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。」、芥川龍之介の「大川の水」の最後の部分です。

次回は第一高等学校から東京帝国大学の芥川龍之介です

●第一高等学校から東京帝国大学までを歩く
  初版2001年6月2日、二版2003年6月21日 <V01L01>

 当初の予定表に戻りまして「芥川龍之介を巡る」の第二回目の改版として「第一高等学校から東京帝国大学までを歩く」を掲載します。この辺から同級生の芥川龍之介を巡る話や、奥様の文さんの書かれた話などが出てきますので少し面白くなると思います。

 芥川龍之介の第一高等学校時代の同じクラス(落第生もいたのだ)といえば山本有三、土屋文明、久米正隆、菊池寛、松岡譲や恒藤恭が有名ですが、特に恒藤恭の「旧友芥川龍之介」が面白いので、この本を参考にしながら話を進めたいとおもいます。序文では、「芥川龍之介は私の最も親しい友人の中の一人であつた。一高の学生時代にはじめて互ひに知り合ってから、私たちの親しい交はりは十六年ばかり続いた。昭和二年七月二十四日の芥川の自殺によつて此の交はりは終りを告げたとは云ふものの、彼のおもかげは絶えず折りにふれて私の意識のうちによみがへり、或時はあざやかに、或時はかすかに、私の心に呼びかけるのである。…‥」、とあります。話は変わりますが芥川龍之介の初恋の人は幼なじみの吉田弥生でしたが、実家の反対でうまくいかず、結局、吉田弥生は陸軍中尉と結婚します。

左の写真は芥川龍之介の描いた「樹下の我鬼先生」です。芥川龍之介には、なんというか常識人では考えられない逸話がたくさん有る様です。「芥川は二年生になっ初めて寮にはいった。私たちはたしか北寮三番の室に起臥した。初め寮の生活は彼にとって随分無気味な、そして親しみにくいものであつたに相違ない。次第に彼は其れに馴れては行ったものの、六分どころしか其れに應化しなかつた。私も寮の生活には十分應化せすして終った方だが、それでも芥川に比べれば、さうした生活に適應うる能力をより多くもってゐた。例へば、彼は初めは中々寮で入浴することを肯んじなかった。やっと入浴するやうになっても、稀れにしか入浴しなかった。しかし忘れて手拭をもたすに風呂にはいったやうな逸話をのこした。銭湯にもあまり行ったことはないと云つてゐた。寮の食事は風呂のやうに忌避するわけにゆかぬので、毎日喫べてはゐたが、いつも閉口してゐた。食堂でも、ある日の宅食後に、インキ瓶だと思つて醤油入をつかんで入口まで持って行ったといふ逸話を作った。」、銭湯に入らなかった話はなんとか理解しますが、醤油入れをインキ瓶とは、よほど書く事だけを考えていたのでしょう。我々普通人では理解しがたい行動です。

芥川龍之介の年表 -2-

和 暦

西暦

年  表

年齢

芥川龍之介の足跡

作  品

明治43年
1910
日韓併合
18
3月 府立第三中学校を卒業
8月 第一高等学校合格
9月 第一高等学校一部乙類(文科)に入学
10月 本所小泉町から府下豊多摩郡内藤新宿二丁目七一番地に転居
 
明治44年
1911
辛亥革命
19
   
大正2年
1913
 
21
7月 第一高等学校卒業
9月 東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学
 
大正3年
1914
第一次世界大戦始まる
22
10月 新宿から北豊島郡滝野川町字田端四三五番地に転居 大川の水
大正4年
1915
対華21ヶ条、排日運動
21
8月 松江市を訪ねる 羅生門
大正5年
1916
世界恐慌始まる
24
7月 東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託、鎌倉へ転居
鼻、芋粥

<第一高等学校>
 恒藤恭が芥川龍之介の第一高等学校時代のことを書いています。「そのクラスにはたしか三十六、七人の生徒がゐたと記憶してゐるが、その中の十人ばかりは、有名なドイツ語の教授岩元先生のきびしい採点のために落第した人たちで、山本有三、土屋文明の両君などもこのグループに属してゐた。残りの新入生の中で八人は無試験で入学した人たちであった。(当時は各地の中学校から推薦された成績優秀の者につき高等学校で銓衡を行ひ、無試験で入学を許可する制度が行はれてゐた。)早く亡くなった佐野文夫はその一人であったし、芥川龍之介及び現存の人としては久米正雄、長崎太郎の両君などもこのグループに属してゐた。第三のグループ、つまり試験を受けて新しく入学した者たちの中には、菊池寛、成瀬正一、石田幹之助などの人々がゐた。私自身もその一人であつた。松岡譲君も無試験入学者の一人であつたかと思ふが、いくらか記憶があいまいである。」、とにかく凄いメンバーですね。これだけの人々がいれば何でもできそうに思いますが、反対になにもできないかもしれません。

左の写真が旧第一高等学校の正門です。御存じの通り、現在の東京大学農学部正門です。昨年から修理工事をしていたのですが、修理が終わって綺麗になっています。ちなみに芥川龍之介は第一高等学校を二番で卒業します。一番は恒藤恭でした。恒藤恭について少し解説します。「恒藤恭は芥川龍之介との親交のなかで自己の文学的能力を見極め、東京帝国大学へは進まず、京都帝国大学法科へ進みます。後に京都帝国大学法科教授となり、戦前の京大事件(瀧川事件)で辞職しています。やはり出来る人は皆違いますね!!」

<内藤新宿>
 芥川龍之介が第一高等学校に入学した年の10月に芥川家は本所小泉町から新宿二丁日に転居します。「そのころは、四谷見附から新宿へ向けて走る電車が終點に近づいて行くと、電車通りに新宿の遊廓の建物がならんでゐるのが窓から見えたものであった。たしか三丁目で下車して少し引返し、左りへ折れて二、三町ばかり行くと、千坪くらゐの広さの方形の草原を前にして芥川の住んでゐた家がぽっんと建つてゐた。樫の木などが疎らに生えてゐる地面を十四、五間へだてて牛舎があった。芥川の実父新原氏はそこと今一つほかの場所で牧場を経営してゐた。いま一つの方のことは知らないけれど、新宿の方のは牧場といっても小規模のものだった。しかしホルスタイン種か何かの骨格のたくましい牛を幾頭も飼ってゐた。芥川の住んでゐた家も新原氏の所有に属するものであった。大正三年十月には芥川家は田端に轉居したから、芥川は高等学校時代を通じて新宿に住んでゐたわけであるが、二高の二年生だった一年間は寮生活を送り、そのあひだ土曜日の午後から日曜日にかけて自宅に帰るならひだつた。」、と恒藤恭は書いています。よく芥川家を訪ねたのでしょう。

右の写真付近が内藤新宿二丁目七一番地です(現在の新宿二丁目の靖国通り付近)。芥川家は本所小泉町から府下豊多摩郡内藤新宿二丁目七一番地(現在の新宿区新宿2丁目)の耕牧舎牧場わきの実父の持ち家に引越ししています。この家は元々実父の娘のヒサ夫妻の為に建てた物でしたが、明治43年離婚した為空き家になっていました。芥川家の本所界隈は度々水害に見舞われたこともあり、龍之介の一高通学も考えた上で明治43年10月に引越しています。芥川家はここに大正3年10月まで住んでいます。

<東京帝国大学>
 芥川龍之介は大正2年9月、東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学します。翌年10月田端に転居します。当時の芥川家の食事の様子を恒藤恭は下記のように書いています。「新宿の家でも、田端の家でも、朝飯にはきっと生玉子が二つと、ほうれん草のひたしと、短冊形の焼海苔四、五枚とが膳のうへにならべてあった。いつも芥川と私とは芥川の書斎で食事をしたので、他の家族の人々も同じやうな朝飯をたべる慣ひであったか否かは分らないが、何にせよ一度だってそれらの三品が欠けてゐたことはないし、またそれ以外の品がついてゐたこともなかった。」、とあります。朝御飯の定番のように思えますが、生卵が二つは豪勢ですね。

左の写真が東京帝国大学正門です。本郷三丁目方面に赤門がありますが正門は此方です。

次回は「芥川龍之介の田端を歩く」を改版します。

<芥川龍之介東京地図 −1−>




【参考文献】
・田端文士村:中公文庫、近藤富枝
・新潮文庫(大正の文豪):新潮社
・新潮日本文学アルバム(芥川龍之介):新潮社
・年表作家読本(芥川龍之介):河出書房新社
・文人悪食:新潮文庫、嵐山光三郎
・江東区の文化財:江東区教育委員会
・文学でめぐる京都:高野澄、岩波ジュニア新書
・追憶 芥川龍之介:芥川文、中公文庫
・芥川龍之介雑記帳:内田百?閨A河出文庫
・旧友芥川龍之介:恒藤恭、日本図書センター


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