●芥川龍之介の「しるこ」
 初版2012年6月16日
 二版2014年2月19日 柳橋「やまと」を追加、「常盤」の写真を更新
 三版2014年4月 9日<V01L01> 浅草「秋元」、銀座「十二ヶ月」を追加
 今回は「芥川龍之介の『しるこ』」です。この「しるこ」は芥川龍之介が服毒自殺した昭和2年の5月に書かれたものです。関東大震災以前の東京のしるこ屋について書かれいます。久保田万太郎、小島政二郎も合わせて掲載しました。

「芥川龍之介全集」
<芥川龍之介の「しるこ」>
 芥川龍之介が「しるこ」について書くなんてなかなかいいですね。先日、夏目漱石の「京に着ける夕」を読んでいたら、”赤いぜんざいの大提灯”が登場していました。関東で”ぜんざい”というと、神田連雀町の「竹むら」が有名です。粟餅に小豆の餡をかけたもので、”しるこ”のような液体ではありません。関西では一般的には”しるこ”と”ぜんざい”は同じ意味につかわれています。
 芥川龍之介の{しるこ」の全文です。
「     しるこ

 久保田万太郎君の「しるこ」のことを書かいてゐるのを見み、僕ぼくも亦また「しるこ」のことを書かいて見みたい欲望を感じた。震災以來いらいの東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶てしまつた。その代にどこもカツフエだらけである。僕等はもう廣小路の「常盤」にあの椀になみなみと盛た「おきな」を味はふことは出來ない。これは僕等下戸仲間の爲には少すくなからぬ損失である。のみならず僕等の東京の爲にもやはり少くなからぬ損失である。
 それも「常盤」の「しるこ」に匹敵するほどの珈琲を飮ませるカツフエでもあれば、まだ僕等は仕合であらう。が、かう云ふ珈琲を飮むことも現在ではちよつと不可能である。僕はその爲にも「しるこ」屋のないことを情けないことの一つに數へざるを得ない。
「しるこ」は西洋料理や支那料理と一しよに東京の「しるこ」を第一としてゐる。(或あるひは「してゐた」と言いはなければならぬ。)しかもまだ紅毛人たちは「しるこ」の味を知しつてゐない。若し一度知つたとすれば、「しるこ」も亦或は麻雀戲のやうに世界を風靡しないとも限らないのである。帝國ホテルや精養軒のマネエヂヤア諸君は何かの機會に紅毛人たちにも一椀の「しるこ」をすすめて見るが善い。彼等は天ぷらを愛するやうに「しるこ」をも必ず――愛するかどうかは多少の疑問はあるにもせよ、兎に角く一應はすすめて見みる價値のあることだけは確かであらう。
 僕は今もペンを持つたまま、はるかにニユウヨオクの或あるクラブに紅毛人の男女が七八人、一椀の「しるこ」を啜ゝりながら、チヤアリ、チヤプリンの離婚問題か何かを話してゐる光景を想像してゐる。それから又パリの或るカツフエにやはり紅毛人の畫家かが一人、一椀の「しるこ」を啜ゝりながら、――こんな想像をすることは閑人の仕事に相違ゐない。しかしあの逞ましいムツソリニも一椀の「しるこ」を啜ゝりながら、天下の大勢を考考へてゐるのは兎に角想像するだけでも愉快であらう。」

 この文章は明治製菓の雑誌「スヰート 第二卷第三號(昭和2年6月)」に書かれたものです。ここでしるこ屋として登場するお店は、「常盤」、「梅園」、「竹村」の三軒です。今回はこの三軒を中心にして歩いてみました。

左上の写真は岩波書店版の「芥川龍之介全集」です。良く出来た全集です。たいへん参考になりました。

「梅園のしるこ」
<梅園>
 芥川龍之介が「しるこ」を書いたのは昭和2年で関東大震災後ですが、内容は関東大震災以前の東京の”しるこ屋”を中心に書かれています。「しるこ」に書かれているお店は、「常盤」、「梅園」、「竹村」の三軒ですが、三軒のうち「常盤」は関東大震災で無くなっています。”しるこ屋”として現在も残っているのは、「梅園」のみです。戦災後も場所は昔と変わらず、営業続けられて現在に至っています。

右の写真が現在の梅園の”おしるこ”です。630円です。その他に”あわぜんざい”があります。これは”きび”に”こしあん”をかけたものです。当然ですが”おしるこ”のような液体ではありません。中身は違いますが”竹むら”とおなじ作り方です。昔からの”ぜんざい”の作り方のようです。

「甘味」
<久保田万太郎の「あまいもののはなし」>
 芥川龍之介が「しるこ」の中で、”久保田万太郎君の「しるこ」のことを書かいてゐるのを見み”、と書いていますので、久保田万太郎の「しるこ」を探してみました。
 昭和16年発行の「甘味(お菓子随筆)」の中に久保田万太郎の”あまいもののはなし”として纏められていました。
「…     甘いものゝ話

 嘗て、わたしは、このごろの若い人達の汁粉を「飲む」といふのをわらつたことがある。
汁粉は「喰ふ」あるひは「喰べる」もので決して「飲む」ものではない。「飲む」といはるべきでない。「飲む」では第一、「味ふ」と心ふ感じがまるでそこに感じられた心ではないか。 ── さういってわたしは「新時代」を批難した。が、その後、機會のある毎に研究してわたしのその批難の、それらの人々に全くいはれないものであるのをわたしは發見した。すなはちそれらの人々は、汁粉の「汁」をまづ一気に流し込むのである。しかるノのち「餅」に箸をつけるのである。が、それらの人々にとっては「餅」がその主體ではない。「汁粉」をその流し込むことによって「汁粉」をもちゐることの目的の大半は果されるのである。…

      味の自由

 汁粉は「喰ふ」ものか、「飲む」ものか?、十年まへ、わたくしは、いまは亡き芥川龍之介と、熱心に、.それについて検討した。‥‥うそのやうな話である。いまのやうな、むづかしい、切迫つまつた世の中になっては、喰はうと、飲まうと、どツちだっていゝぢやアないかそんなこと。‥‥さういふより外に手はないのである。‥‥せめて、ものを喰ふときだけで
も、それぞれのもつてゐる自由を確保したい。‥‥わたくしはさう思ふ気もちで一ばいである。…」

 ”甘いものゝ話”は昭和2年4月・6月、”味の自由”は昭和12年3月なので、芥川龍之介が読んだのは”甘いものゝ話”の前半となります。上記に書かれているのは前半ですので、芥川龍之介が読んだところとなるわけです。

上の写真が昭和16年発行の「甘味(お菓子随筆)」です。杉並区阿佐ヶ谷五丁目の双雅房が発行元です。芥川龍之介の「しるこ」も掲載されています。

【芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 4月 父親と京都・奈良を見物
9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月 友人と共に関西旅行
         
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
34 4月 神奈川県の鵠沼で静養
昭和2年 1927 金融恐慌
地下鉄開通
35 7月24日 睡眠薬で自殺



「食いしん坊」
<小島政二郎の「食いしん坊」>

 「しるこ」のお話しは、芥川龍之介から久保田万太郎に移って、久保田万太郎から小島政二郎に向い、結局最後は芥川龍之介に戻ります。
 小島政二郎の「食いしん坊」からです。
「… 「お汁粉は飲むか食べるか」
 という動議が持ち出された。あるいは「都新聞」あたりの随筆に書かれたのかも知れない。要するに、江戸ッ子の小島が、そんな間違ったことを言っては困るというお叱りを受けた。
 すると、翌月の「文藝春秋」だったかに、芥川龍之介がもう一度それをなぞって、お汁粉は食べるというのが本当だという裏書をして、私は重ね重ね面目を失ったことがあった。
 芥川さんはお汁粉が好きで、よく一緒に食べに行った。私が誘って喜ばれたのは、上野の常磐、柳橋の大和、芥川さんに誘われて行ったのが、日本橋の梅村、浅草の松村。中でも、芥川さんは常磐が大のお気に入りで、
「あすこはお汁粉屋の会席だね」
 そう言って、いろんな友だちを連れて行かれたらしい。
 惜しいことに、大地震の時焼けて、それなり復活しなかった。上野公園の方から神田へ向かって行くと、松坂屋の方の側で、松坂屋とは横町を一つ隔てて、先隣と言ってもいいような位置にあった。電車通りではあったが、あすこは地形上道幅が広く、それに店構えがやや斜めにホンの少しばかり上野公園の方に向いていたせいか、座敷へ通ると、静かだった。
 今のように乗り物が激しくなかった時代のせいもあったろう。太い竹を二つに割って、それを透き間なく並べて、里l椋欄縄の結びRHを見せた塀が高く往来に画していた。その竹が、渋色に焼けていた。
 四角な柱が二本、その向かって右の柱に「しるこ、ときわ」とまずい字で書いた看板が掛かっている以外、何一つ人の目を引くようなものも出ていず、いつもシーンと静まり返っていた。
 今から思うと、よくあれで商いになったと思うくらい、お汁粉屋というよりもシモタヤ然としていた。意気な建物とか、酒落たたたずまいとか、そんなところは微塵もなく、ただ手堅い普請であり、小さな庭の作りだったが、それでいて品があった。
 私はそのころから余り甘い味が好きでなく、ごく普通の御膳汁粉専門だったが、芥川さんは白餡のドロッとした小倉汁粉が大好きで、御膳が十銭とすれば、小倉は二十五銭ぐらいした。従って赤いお椀も、平ッたく開いて大きく、内容も御膳の二倍はあった。
 今でもそうだが、私はなんでも食べるのが早い。一膳食べて、お代りをして、それを食べてしまっても、芥川さんはまだ小倉の一膳目をすすっている。前歯二本に、ホンの少しばかり透き間があり、その付け根にかすかな黒いシミのある歯をお餅に当てて静かに食べている。お椀の上にある日が、睫毛が長くつて、黒いヒトミが深々とたたえていて美しかった。
「そう君のようにせっかちに食べたら、物の味が分らないだろう」
 箸を休めて、芥川さんが私を哀れむように、からかうように言った。
「そんなことはありませんよ。私は早く食べないとうまくない」
 そういう私を肴に、芥川さんはゆうゆうとその甘ッたるい小倉をお代りするのがおきまりだった。…」

 上記に書かれている「都新聞」、”翌月の「文藝春秋」”については調査不足です。ここで登場するしるこ屋は、”上野の常磐”、”柳橋の大和”、”日本橋の梅村”、”浅草の松村”の4軒となります。この4軒を調べてみました。

左上の写真は河出文庫版の小島政二郎「食いしん坊」です(初版は昭和29年(1954))。なかなか面白い文庫本です。

「下谷生まれ」
<小島政二郎の「下谷生れ」>
 小島政二郎は昭和38年(1963)8月より「上野のれん会」の雑誌「うえの」に「下谷生れ」の連載を開始します(改題しつつ二十年間継続)。この雑誌「うえの」の掲載を纏めたものが昭和45年に「下谷生れ」として本となります。
 小島政二郎の「下谷生れ」からです。
「… 千住の大橋の傍に、鈴木屋という稲荷寿司のうまい家があった。普通の稲荷寿司よりも横長の寿司で、お皿の端に黄いろい芥子が添えてあった。
 寿司は手掴みで食べるに限る。稲荷寿司にチョイとこの芥子を付けて食べると、味が引き立つ。外の寿司屋ではないサービスで、未だに芥子の黄色が目に残っている。
 戦後、横須賀線の北鎌倉駅で降りたすぐのところに、光泉という喫茶店のような家が出来た。はいって見ると、稲荷寿司が出来る。
 これが、形を味も昔の鈴木屋のにソックリなのだ。ただし、芥子は付いていない。
 聞くと、千住の鈴木屋だという。戦争は千住の住人を北鎌倉へ連れて来てくれたりした。お陰で、いながらにして昔の名物を口にすることが出来て、私は喜んでいる。近頃、この光泉ではお汁粉も食べさせてくれる。これがまたうまい。
 戦争前までは、東京の方々にうまいお汁粉屋が何軒かあったが、みんな姿を消してしまった。例えば、上野の松坂屋の並びに、太い竹の塀を巡らした、エーと、何と言ったヅけな、近頃老雄して思い出せない。私の「食いしん坊」には書いてあるのだが ── 。そう、そう。常盤。ここはお汁粉厨の会席だったろう。柳橋には大和、浅草には秋本、日本橋には梅むら。もっと前には、銀座の資生堂の前あたりに十二ケ月、こういう家のお汁粉はいずれも薄味で、第一、今の汁粉屋のお汁粉のように、焼けどをするようなあんな熱いものではなかった。光泉のお汁粉がそれで、人は笑うかも知れないが、お汁粉は酒のお欄と同じで、人肌Iよりもちょいと熱加減がいい。
 忘れられないのは、千住の大橋。掃部宿の名倉接骨医の門前 ── というよりも、玄関の下駄の数。…」

 「食いしん坊」の内容が一番詳しいようです。上記の”老雄”って、”年とった英雄”という意味です。

左上の写真は上野のれん会の小島政二郎「下谷生れ」です。昭和45年5月発行です。

「常盤跡」
<常盤>
 2014年2月18日 「常盤」の写真を追加・更新
 芥川龍之介が最も気に入っていたしるこ屋でしたが関東大震災で焼失し、復活できなかったようです。
 小島政二郎の「下谷生れ」を再登場してもらいます。
「… 戦争前までは、東京の方々にうまいお汁粉屋が何軒かあったが、みんな姿を消してしまった。例えば、上野の松坂屋の並びに、太い竹の塀を巡らした、エーと、何と言ったヅけな、近頃老雄して思い出せない。私の「食いしん坊」には書いてあるのだが ── 。そう、そう。常盤。ここはお汁粉厨の会席だったろう。柳橋には大和、浅草には秋本、日本橋には梅むら。もっと前には、銀座の資生堂の前あたりに十二ケ月、こういう家のお汁粉はいずれも薄味で、第一、今の汁粉屋のお汁粉のように、焼けどをするようなあんな熱いものではなかった。…」
 「常盤」の場所に」ついては
・小島政二郎の「下谷生れ」:上野松坂屋の並び
・小島政二郎の「食いしん坊」:松坂屋の方の側で、松坂屋とは横町を一つ隔てて、先隣、店構えがやや斜め
・古老がつづる台東区の明治・大正・昭和T:地図に「トキワシルコ」(大正7年頃の上野広小路付近)
 残念ながら正確な番地が分かりません。もう少し調べる必要がありそうです。

右の写真は上野三丁目の交差点から北側を撮影したものです。中央通りは震災以前は今のような真っ直ぐな道ではなく、鍵型に曲がった道でした。当時は野松坂屋南館の前で右に曲り、直ぐに左に曲がってうさぎ屋の前を神田に向う道筋でした。ですから、現在の「うさぎや」の反対側、上野寄りに「常盤」があったとおもわれます。写真の真ん中当たり、都バスが止まっているところ附近に「常盤」があったとおもわれます。


芥川龍之介の上野広小路地図



「現在の松邑」
<浅草の松邑(まつむら)>
 次が浅草の「松村」です。芥川龍之介は”松村”、小島政二郎の「下谷生れ」では”秋本”、小島政二郎の「食いしん坊」では”松村”と書かれています。”秋本”は間違いで、正式には”松邑”です。
 小島政二郎の「下谷生れ」からです。
「… 戦争前までは、東京の方々にうまいお汁粉屋が何軒かあったが、みんな姿を消してしまった。例えば、上野の松坂屋の並びに、太い竹の塀を巡らした、エーと、何と言ったヅけな、近頃老雄して思い出せない。私の「食いしん坊」には書いてあるのだが ── 。そう、そう。常盤。ここはお汁粉厨の会席だったろう。柳橋には大和、浅草には秋本、日本橋には梅むら。もっと前には、銀座の資生堂の前あたりに十二ケ月、こういう家のお汁粉はいずれも薄味で、第一、今の汁粉屋のお汁粉のように、焼けどをするようなあんな熱いものではなかった。…」
 上記の”秋本”は”松邑”が正解です。関東大震災以前の「松邑」は言問通り(当時は改正道路)に面して現在の浅草寺福祉会館の左側付近にありました(村邑と書かれている)。震災後は浅草寺病院の浅草寺側に移っています(松林と書かれている)。昭和14年の浅草絵図にも掲載されています。

写真は現在の「松邑」です。浅草2-29-5、「花やしき」の東側です。残念ながら”しるこ屋”ではありません。江戸もんじゃ屋さんに変わっていました。お店の方に確認しました。

「秋元跡」
<浅草には秋本>
 2014年4月9日 「秋元」を追加
 残っていた二軒、”浅草の秋本”と”銀座の十二ケ月”を順次紹介します。最初は浅草の「秋本」です。ここも場所がなかなか分からず、苦労しました。きっかけは柳橋の「やまと」と同じで、大正8年の「東京の汁粉屋の番付」です。”前頭 秋元 浅 雷門外”と書かれていました(”秋本”と”秋元”は字が違いますが同一と判断しました)。大体の場所が分からないと探しようがないのです。

 小島政二郎の「下谷生れ」からです。
「… 戦争前までは、東京の方々にうまいお汁粉屋が何軒かあったが、みんな姿を消してしまった。例えば、上野の松坂屋の並びに、太い竹の塀を巡らした、エーと、何と言ったヅけな、近頃老雄して思い出せない。私の「食いしん坊」には書いてあるのだが ── 。そう、そう。常盤。ここはお汁粉厨の会席だったろう。柳橋には大和、浅草には秋本、日本橋には梅むら。もっと前には、銀座の資生堂の前あたりに十二ケ月、こういう家のお汁粉はいずれも薄味で、第一、今の汁粉屋のお汁粉のように、焼けどをするようなあんな熱いものではなかった。…」
 大正10年の浅草公園地図には”秋茂盛庵しるこ”、昭和14年の浅草絵図には”秋もと”との記載がありました。どちらも同じ場所で”雷門外”なので間違いないとおもいます。昭和37年の住宅地図にも”秋元”の記載がありました。戦後もお店をやられていたようです。残念ながら現在はありません。

写真は現在の台東区浅草2丁目3−1附近です。宝蔵門から少し南に下がった東側を撮影したものです。この右側に秋本(秋元、秋もと)がありました。


芥川龍之介の浅草地図(永井荷風の浅草地図を流用)



「やまと汁粉店跡」
<柳橋の大和>
 2014年2月18日 柳橋の「やまと」を追加
 柳橋の「やまと」の場所がなかなか分らなかったのですが、ようやく詳細の場所を探し出すことがでしました。きっかけは大正8年の「東京の汁粉屋の番付」に「やまと」を見つけたことから始ります。この中に”浅 茅町 やまと”と書いてあり、これでおおよその場所が分りました。
 小島政二郎の「食いしん坊」からです。
「… 芥川さんはお汁粉が好きで、よく一緒に食べに行った。私が誘って喜ばれたのは、上野の常磐、柳橋の大和、芥川さんに誘われて行ったのが、日本橋の梅村、浅草の松村。…」
 正確な場所は当時の職業別電話番号簿で「やまと」を探しました。電話がないと載っていないのですが、”やまと汁粉店 浅、茅、二−二一”と記載されていました。浅草橋近くの馬喰町一丁目にある菓子の「亀屋大和」は柳橋の「やまと」とは全く関係がないそうです。

右の写真は現在のJR総武線浅草橋駅前付近です。当時の住所で浅草区茅町2−21は現在の台東区浅草橋一丁絵13−5附近ではないかと推定しています(写真の正面当たり)。JR浅草橋駅が開業したのは昭和7年で、それ迄は総武線は両国駅からでした。関東大震災後の区画整理と総武線のお茶の水−両国間の昭和7年開通でこの当たりはすっかり変ってしまっており、当時の面影は全くありません。

「梅むら」
<日本橋には梅むら>
 日本橋の「梅村」を探しました。
 小島政二郎の「食いしん坊」からです。
「… 芥川さんはお汁粉が好きで、よく一緒に食べに行った。私が誘って喜ばれたのは、上野の常磐、柳橋の大和、芥川さんに誘われて行ったのが、日本橋の梅村、浅草の松村。…」
 日本橋の「梅村」は比較的簡単に見つけることができました。少し前まで喫茶店で営業されていました。

右の写真は現在の「梅むら」です。「梅村」ではなくて「梅むら」が正解です。小島政二郎の「下谷うまれ」には「梅むら」と書かれています。現在はレンタルスペースとなっています。少し前までは喫茶店でした。震災前(日本橋區瀬戸物町二三)は写真手前の道は無く、路地でしたので、推定ですが路地の奥にあったのではないでしょうか、震災あとの区画整理後は写真の反対側に「梅むら」がありました。戦後移ったようです。

「十二ケ月跡」
<銀座の資生堂の前あたりに十二ケ月>
 2014年4月9日 「十二ケ月」を追加
 最後は銀座資生堂前の「十二ケ月」です。大正8年の「東京の汁粉屋の番付」に「十二ケ月」はありませんでしたので、其程でもないのかもしれません。

 小島政二郎の「食いしん坊」からです。
「… 柳橋には大和、浅草には秋本、日本橋には梅むら。もっと前には、銀座の資生堂の前あたりに十二ケ月、こういう家のお汁粉はいずれも薄味で、第一、今の汁粉屋のお汁粉のように、焼けどをするようなあんな熱いものではなかった。…」
 銀座資生堂前の「十二ケ月」については安藤更生の「銀座細見」の中に少し詳しく書かれていました。
「…    汁 粉 屋

 汁粉はしがらき新道に昔から有名な十二ヶ月がある。この店はもと表通り一丁目にあったので、それが南金六町へ移り、震災後今のところへ更った。そのころは十二杯の汁粉を十二ヶ月に割り当てて、全部喰べた人には代はとらずに景品に反物をくれた。ところが、これは月が重なるに従ってだんだんわる甘くなってゆくので、十二ヶ月みんな喰べ了せる人はほとんどなかった。じみだが相当な商売をやって行った。今ではただの汁粉屋で、もう反物はくれない。…」

 ”南金六町”は現在の銀座八丁目の銀座通りの西半分のところです。「アルバム・銀座八丁」に掲載されているのはこの頃の「十二ケ月」です。松崎天民の「銀座」には「十二ケ月」の広告が掲載されています。”銀座尾張町 東仲通り ライオンの裏”と書かれています。今の日産ショールームの裏とおもわれます。

右の写真は現在の銀座八丁目西側です。三菱東京UFJ銀行から右に三軒目のところに震災前まで「十二ヶ月」がありました。「アルバム・銀座八丁」で確認しました。銀座ミノリビルのところとおもわれます。


芥川龍之介の日本橋、柳橋地図



「北鎌倉駅と光泉」
<光泉>
 芥川龍之介が書いているわけではないのですが、小島政二郎の「下谷生れ」の中に美味しい”しるこ屋”について書いていました。
 小島政二郎の「下谷生れ」からです。
「… 千住の大橋の傍に、鈴木屋という稲荷寿司のうまい家があった。普通の稲荷寿司よりも横長の寿司で、お皿の端に黄いろい芥子が添えてあった。
 寿司は手掴みで食べるに限る。稲荷寿司にチョイとこの芥子を付けて食べると、味が引き立つ。外の寿司屋ではないサービスで、未だに芥子の黄色が目に残っている。
 戦後、横須賀線の北鎌倉駅で降りたすぐのところに、光泉という喫茶店のような家が出来た。はいって見ると、稲荷寿司が出来る。
 これが、形を味も昔の鈴木屋のにソツクリなのだ。ただし、芥子は付いていない。
 聞くと、千住の鈴木屋だという。戦争は千住の住人を北鎌倉へ連れて来てくれたりした。お陰で、いながらにして昔の名物を口にすることが出来て、私は喜んでいる。近頃、この光泉ではお汁粉も食べさせてくれる。これがまたうまい。…

…こういう家のお汁粉はいずれも薄味で、第一、今の汁粉屋のお汁粉のように、焼けどをするようなあんな熱いものではなかった。光泉のお汁粉がそれで、人は笑うかも知れないが、お汁粉は酒のお欄と同じで、人肌Iよりもちょいと熱加減がいい。…」

 ”千住の鈴木屋”については調査不足です。北鎌倉駅前の「光泉」は残念ながら”お汁粉”はメニューにありませんでした。昔はあったようです。せっかくなので、稲荷ずしを買ってみました。さっぱりした味でなかなかいけます。稲荷ずしの写真を掲載しておきます(包装済みの写真、中身の写真)。

右上の写真が北鎌倉駅です。「光泉」は写真右側の薄茶色の建物です。お店の前には懐石料理のメニューしが掲示されていません。中に入って直接”いなり寿司”を頼みます。名前と個数を頼むと1時間位掛かると云われますので、1時間後に取りに行くわけです。一人前650円です。