●芥川龍之介の大阪を歩く -1-
 初版2007年6月30日 <V01L04> 
 前回は宇野浩二の「芥川龍之介」に沿って京都を歩きましたが今回も同じく「芥川龍之介」に沿って大阪を歩きます。直木三十五が突然京都で降りて降りて市内を歩き廻ったわけですが、今回は本来の目的の講演を行うために大阪を歩きます。

二代目「大阪駅」
大阪駅(二代目)>
 今回の芥川龍之介の大阪訪問は大正9年です。「大阪の宿」を書いた水上龍太郎が大阪に転勤したのが大正6年、梶井基次郎が第三高等学校に入学したのが大正8年ですから、当時の大阪のイメージとしては何か分かります。「…京都から大阪までのあひだの二等車のなかは閑散であった。その時分の二等車は、今の都電や省線の電車のやうに、車の両側に座席がついてゐて、その座席もふかくクッションもやはらかく、座席や座席のあひだの通路もひろかった。 さて、汽車の中がすいてゐたので、私たち五人の連中は、すこしづつはなれて、腰をかけた。私たちが腰かけたのは河内の国のはうの側であったが、その反対の側には、汽車のすすんで行く方の隅に、市村羽左衛門(十五世羽左衛門)と五十あまりの女が、席を、しめ、反対の隅のはうに近い席に、『くろうと』らしい女が二人つつましく、腰を、かけてゐた。「……汽車にのる前に、ぼくは、見たんだが、羽左衛門は、まだ五十前だらうが、顔ぜんたい縮緬皺だね、あれは、白ろい粉のせゐだよ、」と、私が、いふと、「色の黒いのも、白粉のせゐだよ、」と、芥川が、いった。 その時、ふと、見ると、羽左衛門も、そのつれの女も、座席の上にすわつて、窓の外をながめながら、なにか、しきりに、話しあってゐた。「……あのつれの女は、細君ぢやないね、」と、私が、いふと、「林家のおかみだよ、」と、芥川が、いった。「君は、妙なことまで、知ってるね。……ところで、こっちの隅にゐる女は、芸者だらうが、ちょいとキレイだね。」「君はじつに目がはやいね。」「さういふ君は、僕より早く見てゐたかもしれないから、どっちが早いか、わからないよ。」 私たちがかういふくだらない話をしてゐた時、(いや、その前から、)座席のほとんどまん中へんに腰をかけてゐた、菊池は、直木が、いつのまにか、どこかで、買ってきた、パンやかき餅を、ムシャムシャと、たべてゐた。…」。前回も書きましたが、”はかない記憶”と書いていますが、よく覚えているものとおもいました。芥川龍之介はお茶屋の女将を覚えているのですからたいしたものです。二等車に乗っていますが当時は三等制で二番目の等級に乗っています。それにしても昔の人は座席の上に座っていたのですね。

左上の写真が二代目「大阪駅」です。一代目「大阪駅」は明治7年5月に建てられていますが、二代目は明治34年にゴシック様式で建てられます。今回の大阪訪問は大正9年ですから芥川龍之介はこの大阪駅に降り立ったわけです。三代目の「大阪駅」は昭和15年です(三階建ての鉄筋コンクリートの建物)。

「西道頓堀」
福田屋>
 直木三十五は大阪でも京都と同じように自身がよく知ったお茶屋に皆を連れて行きます(このお茶屋はかなり有名なのです)。「…やがて、大阪駅につき、改札口を出たところで、直木が、自動車をよんだので、私たちは、すぐ、自動車にのつた。(まだ自動車のめづらしい頃であった。)その自動車で、私たちは、堀江の茶屋に、案内された。(堀江は、大阪の島之内にあるが、土地が不便なところで、色町としては二流であるけれど、義太夫の巧みな芸者がゐるので、知られてゐた。その義太夫のできる芸者を太芸者といった。これは、義太夫の三味線は太棹(棹のふといこと。それで、普通の三味線を『ほそ』という)であることから因んだものである。)…」。この堀江のお茶屋こそが後に有名になる福田屋です。この福田屋ですが、道頓堀川の南の九郎右衛門町にありました。直木三十五が何故この福田屋を選んだかというと、「…直木は、もう、その家のどこにも、ゐなかった。(それは、ずつと後に、わかったのであるが、直木には、堀江に、豆枝といふ、太芸者の愛人があり、矢野にも、おなじ堀江に、後に矢野夫人になった、ナニガシといふ、太芸者の愛人があったのである。)…」、という訳なのです。その当時は芥川龍之介も含めてだれも知らなかったようです。ただ、この話は時期が前後していて不明朗になっています。直木三十五の愛人であった「香西織江」が関東大震災(大正12年9月)の後に東京から大阪に移り、直木はそれを追いかけて大阪の福田屋に来たという話もあります。芥川龍之介が大阪を訪れたのは大正9年ですから時期的にあいません。ただ、「豆枝」と「香西織江」が同一人物かどうかは調査不足です。この後、この福田屋は文士たちの定宿になります。

「福田屋跡」
左上の写真が西道頓堀の入り口です。この4、5軒先の左側になります(右側の写真、左端のビルの所、西道頓堀パーキングの手前のビルの所になります)。現在の住所で道頓堀二丁目2番地、道頓堀川南、御堂筋西側です。当時は御堂筋がまだ無く、道頓堀からそのまま繋がっていました。当然ですが福田屋は残っていません。大正14年の電話番号簿に掲載されていましたので場所は正確です。この福田屋が有名なのは谷崎潤一郎と松子さんが始めてあった場所だからです。「…芥川は、九郎右衛門町の福田家に泊まる。潤一郎を引き止めた。「一晩、話そう」という。日ごろ理知的な芥川が、その夜はひどく感傷的で人なつっこい素振りを見せる。ひどい不眠症で、どうしても眠れないとこぼす。恐しく神経が尖っていた。 朝になり、芥川は帰るという。すると、女将が、「もう一日お延ばしやすな」と引き止めた。船場のど大家の御寮人様が大の芥川ファンで、ぜひ会いたいと頼まれていた。文学好きで、ハイカラで、それはそれはお美しいお方というのを聞き、潤一郎が心を動かした。が、肝心の芥川は帰るといって聞かない。車で大阪駅へ向かうみちみち、潤一郎はしきりに口説いた。「ねえ君、もう一度引き返してその婦人に会ってみる気はないですか」「少しばかばかしい気がするな」 芥川は例の皮肉な薄笑いを浮かべてつぶやいた。あまり潤二郎がしつこいので根負けして、四つ橋筋の堂島あたりで引き返す。 根津松子は女将から電話をもらい、芥川に会えると胸をときめかし、すぐに着物の支度にかかった。数え二十五歳。ところが、夫の清太郎がなぜか反対した。「文士に全うのに待合へ行くことあれへんやないか」「引き止めたんのに、今さら行かんちゅうわけにゆきまへんやないか」と、松子が承知せず、ちょっともめた。押し切って、松子は根津家のスチュードベーカーという車を走らせる。福田家へ着いたのは、夕方の六時を回っていた。 お座敷に招じ入れられた松子は芥川に紹介されたが、「こちらは谷崎先生です」と女将に言われ、はっとした。芥川だけだと思っていた。谷崎がひどく態熟にあいさつをする。松子は少し上気した。…」。大谷晃一の「仮面の谷崎潤一郎」からです。時期は昭和2年3月になります。芥川龍之介は講演で大阪を訪ねていました(自殺する少し前になります)。松子さんはすでに結婚して根津松子です。谷崎潤一郎も千代さんと結婚している時期でしたから二人の関係はまだまだだったはずです(谷崎潤一郎と松子さんについては別途特集します)。

【宇野浩二(うのこうじ)本名:宇野格次郎】
福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区荒戸一丁目)に生まれる。3歳のときに父が脳溢血で急死、親戚を頼って神戸へ移る。その後4歳のときに大阪に移住、大阪市東区糸屋町一丁目、次いで花柳界に近い南区宗右衛門町に住んだ。育英第一高等小学校を経て天王寺中学校(天王寺高等学校の前身校)に入学。親戚から学資の援助を得て早稲田大学英文科に入学。1913年4月に小説集『清二郎 夢見る子』を白羊社から出版。1919年に『蔵の中』を『文章世界』に発表、さらに同年、『苦の世界』を『解放』に発表し、新進作家として文壇で認められる。また、広津和郎、谷崎精二、芥川龍之介を友人とした。私小説作家だが、『子を貸し屋』のようなフィクションもある。「文学の鬼」と呼ばれた。 1949年、芸術院会員。1951年、『思ひ川』で読売文学賞。晩年には広津とともに松川事件被告の救援運動に参加したことで知られている。弟子として水上勉がいる。1961年9月死去

【芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芥川龍之介の大阪南地図(夫婦善哉からの転用)


芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月19日 友人と共に関西旅行のため東京を立つ
11月20日 大阪堀江のお茶屋に宿泊
11月21日 生駒の宝山寺近くのお茶屋に宿泊
11月22日 京都に宿泊



「中之島公会堂」
中之島公会堂>
 芥川龍之介の大阪訪問は講演を依頼されて訪ねたもので、講演料が100円だったようです。「…その日の夕方に、中之島の公会堂で、もよほされた、文芸講演会に、里見も、久米も、出なかったことを、はっきり、おぼえてゐる。さうして、その講演会も、菊池が、『文芸と人生』といふ題で、田中が、ツルゲエネフについて、直木が、たしか、『ロシアの前衛作家』といふ題で、主として、ロオブシンについて、講演したことを、おぼえてゐるだけで、芥川がどういふ講演をしたかは、ほとんど覚えてゐないのである。と、書いたが、今、ふと、思ひ出したが、芥川は、会場の裏のはうの講演者の控室のなかで、「……僕は、準備もなにもしてゐないから、『偶感』といふ題にしてください、」と、いった。さて、芥川は、演壇にのぼると、四五日まへまでは、名前も知らなかった、人も知らなかった、植村宋一といふ人間に、ふらふらと、大阪三界まで、つれてこられ、その上、このやうな演壇に、さらし者にされた、……「もっとも、『晒し者』といっても、晒しの刑に処せられた罪人などではありません、」と、いって、芥川は、横むきに、あるきだした、『どうです、ちょいと、おもしろいでせう、』と、いはんばかりに。それから、もう一つ前おきの話をしてから.芥川は、「諸君は、漱石先生の『トリストラム・シャンデエ』といふ文章を、読んだことがありませう、……なかったら、うちに帰って、読んでください、」…」。「トリストラム・シャンデエ」は正確には「トリストラム・シャンデー」か「トリストラム・シャンディ」かもしれません。夏目漱石が書いた小説ではなくてイギリスの小説家ローレンス・スターンが書いた小説で、それを夏目漱石が紹介したものです。原文は難解だそうです。

左上の写真が現在の中之島公会堂です。「愛と死をみつめて」で使った写真そのままです。あの時は大阪駅として使われていました。

「生駒駅」
生駒駅>
 直木三十五に連れられて奈良県生駒を訪ねます。「…直木のあとについて、私たちは、その茶屋を出た。 ところが、すぐ近くだ、と思ったのが、自動車にのせられ、上本町六丁目にゆき、そこから、奈良ゆきの電車にのせられ、生駒駅でおろされた。そのあひだ、三人とも、ずつと、無言であった。 生駒山は、海抜二千尺ぐらゐであるが、金剛山脈の北部を占める生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、といふ伝説の山である。大阪から真東にある奈良まで行く電車がなかなか出来なかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をつひやし十数人の人の命を犠牲にして、やつと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。(これはまちがってゐるかもしれないが、) このトンネルを通すために無理な金をこしらへて、岩下清周(小林一三はこの人にみとめられた)は牢に入れられた。…」。この近畿日本鉄道(当時は大阪電気軌道)の生駒トンネルは大正3年に開通していますので時間的にはあっています。上本町から生駒まで現在では17分位です。なんでこんな處を訪ねたのでしょうか。

右上の写真の正面が現在の「生駒駅」で、この右側後にケーブルカー乗り場があります。このケーブルカーは大阪電気軌道の子会社の生駒鋼索鉄道が大正7年に建設したもので、宝山寺の参拝用でした。直木三十五は大阪生まれですから出来立てのケーブルカーに芥川龍之介を乗せたかったのでしょうか。

「宝山寺参道旅館街」
ケーブル・カア近くのお茶屋>
 宇野浩二、芥川龍之介等は直木三十五に連れられて生駒駅からケーブルカーに乗り、終点の宝山寺駅でおります。「…その宝山寺にまゐるために、生駒駅から宝山寺までケエプル・カアが出来た。さうして、ケエブル・カアができるとともに、そのケエブル・カアの停車場の横から、ケエブル・カアの通じる坂にそうた道に、アイマイな茶屋が十数軒あらはれ、そのアイマイ茶屋のために、アイマイ芸者が五十人ちかく集まって来た。 直木が、「しづかな所」と称して、芥川と私を案内したのは、このケエプル・カアの停車場のちかくの、ちょっとした茶屋であった。…… 「……おい、もう、起きたか、はひつてもいい、」と、私は、わざと、すこし大きな声で、いった。 すると、中で、返事をする前に、クスクス笑ってゐる声がした。私が咄嗟に、二人らしいな、と、思った瞬間に、「……はひつてもいいよ、」と、わりにちゃんとした声で、芥川が、いふ声がした。 そこで、遠慮なく、わざと快活に、襖をあけて、中にはひると、正面に、壁にそうてしいた寝床に、蒲団を肩のへんまでかぶって、横むきに寝てゐた、女の顔が、まづ、見えた。…」。宿泊した目的は分かりますね。上記に書かれているアイマイ茶屋はもうないかとおもったのですが、ケーブルカーの駅から宝山寺までの坂道に十数軒の料理旅館がありました。たぶん、当時のアイマイ茶屋が赤線廃止で料理旅館に替わっていったのだとおもいます。建物は殆どが建て替わっていましたが一部の建物は昔のままのようでした。

左上の写真がケーブルカー駅から宝山寺までの間の料理旅館街です。いまでも十数軒の料理旅館があたました。

「宝山寺」
宝山寺>
 たぶん翌日には芥川龍之介は宝山寺を訪ねただろうとおもいます。「…この生駒山の山腹の東側に、『生駒聖天』として名高い宝山寺がある。この宝山寺は、延宝六年、中興の開山、恵山律師が刻んだ、不動明王が本尊であるが、その上に、『歓喜天』を安置してからは、「霊験いやちこ」といふので、近畿地方のある人たちは熱狂的に信心した。その『霊験』とは、「隣近所七軒の財産が自分のものになり、自分から後の七代の財産を自分のものにする」といふ真に空おそろしき霊験である。…」。すごい霊験ですね。私も宝山寺を訪ねてお賽銭を出しておきましたからきっといいことがあるでしょう。

右上の写真が宝山寺の境内です。

芥川龍之介の大阪地図(生駒駅から宝山寺)



「御澪神社」文楽座跡
御霊神社のなかの文楽座>
 直木三十五は大阪を発って京都に行く前に宇野浩二と芥川龍之介を文楽座に連れて行きます。「…汽車の時間は十分に間にあひますから、文楽にゆきませんか、里見さんも、一しよに行く、と、云つてらっしゃいますから、……」と、いった。 この時分は、文楽座は、平野町の御霊神社の境内にあったので、俗に「御霊文楽」といった。さうして、文楽座は、この御霊神社の境内にあった頃が、一番はなやかな時代であった。 ところで、この御霊神社のなかの文楽座は、大正十五年の十一月二十九日の朝、火災のために、焼けてしまった。名作『文楽物語』の著者、三宅周太郎が、この火災について、「見方によっては、『国宝』とも、大阪の『宝』ともすべき、幾多の古き風雅優美の人形を焼失してしまった。勿論、それらのよき『頭』は、再び作らうとしても、今の世ではどんな方法をもっても作り得ない名品ぞろひである。その時、文楽座の焼土を見て、こっちの一かたまり、向ふの一かたまりの、座方、太夫、人形つかひが、その一かたまりづつゐて、みな、おなじやうに、泣きあってゐた、といふのは、満更に誇張ではあるまい、と思ふ、」と、述べてゐる。…… さて、その日の夕方、町幅のせまい平野町の、御霊神社の前で、自動車をおりて、小さな社殿の横をとはり、小ぢんまりした劇場の前に、出た。(「小ぢんまりした劇場」とは、この劇場に登場するのは人形と人形つかひだけであるから、普通の劇場の舞台の三分の二ぐらゐ(こんど新築された東京の歌舞伎座の三分の一ほど)であり二階は中二階(不通の二階より低く、平屋よりやや高くかまえた二階)の構造であるから劇場の「雛形」の観があったからである。)…」。文楽座は何回か場所を変えています。原因は火事なのですが上記に書かれている通り非常に残念です。

左の写真が御霊神社の入り口左側にある文楽座跡の記念碑です。現在は記念碑のみで当時の面影は全くありません。この後、宇野浩二と芥川龍之介は京都に向かいます。


芥川龍之介の大阪地図