●芥川龍之介の京都を歩く -2-
 初版2007年6月16日
 二版2007年8月22日「わらじや」のメニューを追加
 三版2007年8月24日<V01L01> 谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を追加
 宇野浩二の本の中に「芥川龍之介」のタイトルを見つけ、読んでみると面白かったのでこの本を参照しながら少し歩いてみました。350ページもある本で全部は読んでいないのですが、関西地方を旅行したところの話を中心に歩いてみました。二回に分けて掲載します。

筑摩書房「芥川龍之介」
<「芥川龍之介」 宇野浩二著>
 宇野浩二著の「芥川龍之介」です。あとがきで宇野浩二が書いていますが、芥川龍之介が亡くなったのが昭和2年7月で、この本を書き始めたのが昭和26年7月ですから、亡くなってから24年目になるわけです。まずは”まえがき”からです。
「芥川龍之介 ── と、かういふ、ものものしい、題をつけたが、この文章は、芥川龍之介のことを、思ひ出すままに、述べるつもりで、書くのであるから、これまでに私が芥川について書いた文章と重複するところがかなりある、(いや、重複するところばかり、)といふやうなものになるにちがひない。このことを、まづ、はじめに、おことわりしておく。それから、この文章は、もとより、評伝でも評論でもなく、私が芥川とつきあった短かい間の、私が、見、聞き、知った、芥川について、その思ひ出を、主として、書きたい、と思ってゐるのであり、さ久ノして、その思い出も、わざと、ノオトなどをとらないで、おもひだすままに、あれ、これ、と書きつづる、といふやうな方法をとりたい、と思ふので、思ひ出すままに述べる事柄の年月があとさきになったり、それぞれの話がとりとめのないものになったり、するにちがひない。かういふことも、ついでに、おことわりしておく。それから、このやうな、はかない、あてどのない、とほい昔のことを、たよりない記憶で、書くのであるから、これから、たどたどと、述べてゆくうちに、つぎつぎと、出てくる事柄に、思ひちがひやまちがひが多くあること、名を出す人たちに、とんでもないことやまちがったことを書いたために、すくなからぬ御迷惑を、かけるかもしれないことを、(かけるにちがひないことを)前もって、おことわりし、おわびを申しあげておく。それから、最後に、これから述べようとすることは、もとより、私のはかない記憶を、たどりながら、書くのであるから、まづしい頭からくりだす、あやふやな思い出が、なくなってしまったら、そこでこの文章は、をはらねばならぬことを、おことわりしておく。…」
 ”はかない記憶”と書いていますが、よく覚えているとおもいました。24年も前の事柄ですか日付も定かではないとおもいますが、かなりきっちり書かれています。その上で、芥川龍之介の話だけではなくて直木三十五他のお話も、とても面白く読みました。

左上の写真が宇野浩二の筑摩書房版「芥川龍之介」です。筑摩叢書88で昭和42年8月発行です。宇野浩二が芥川龍之介について書いていることは全く知りませんでした。でも、とても面白い本ですよ、一読されることをお薦めします!!

二代目「京都駅」
京都駅>
毎回書いていますが、どの小説家も京都のことを書くときは京都駅から始まります(夏目漱石も谷崎潤一郎も)。宇野浩二、直木三十五、芥川龍之介一行が京都を訪ねた時期は大正9年ですから、京都駅は二代目になっています(京都駅は大正3年に改築されています)。
「          一
 私が芥川と一しよに旅行したのはただ二度である。ところが、その二度とも大阪に行ったことをはっきり覚えてゐながら、大正九年の十一月の下旬に、直木三十五にさそはれて、里見、久米、菊池、その他と、大阪まで行き、それから、芥川と二人で、京都から、名古屋にまはり、諏訪に行った時の事は、よく、(些細のことまで、)おぼえてゐるのに、もう一つの旅(二度日の旅) の思ひ出は、ただ、芥川と一しよに大阪に行った、といふほどの記憶しかないのである。ただ、『二度目』といふ記憶があるのは、(といって、うろおぼえではあるが、)たしか、大正十三年の二月の中頃であったか、ある日、芥川が、私の家に、あそぴに、(といふより、はなしに、)来たとき、なにかの話がとぎれた時、とつぜん「……大阪へ一しょに行かないか、ぼく……」と、いった。そこで、私が、ちょっと考へてから、「ゆきたいけれど、……金がないから、……」といふと、芥川は、すぐ、「金なら、心配は、いらないよ、」といひながら、あの、目尻に、二三本のしわをよせ、目にたつところに大きな歯が一本かけてゐる少し大きな口を細目にひらいて笑ふ、独得の、おどけたやうな、あかるい、笑ひ方をした。それだけで、私は、すぐ、「そんなら、行かう、」と、約束をした。今、その時の事をおもふと、(これも、また、まちがってゐるかもしれないが、)その時、芥川は、たしか、支部に行くことになってゐて、それを、起行文に、書く条件で、たのまれた、大阪毎日新聞社の、(その頃、学芸部長であった、)薄田泣菫にあふために、大阪にゆく用事があったので、私を、その『道づれ』にえらんだのである。それから、金の心配はいらない、といったのは、泣菫に、支部ゆきのうちあはせに行ったついでに、前借をたのんで、相当の金をうけとるつもりであったのだ。…」

 谷崎潤一郎の時もそうでしたが、新聞社から紀行文を頼まれることが多いのですね。前借りしていくのですから全く同じパターンですね。

左上の写真が二代目京都駅です。上記にも書きましたが大正3年に建て直されています。立派な京都駅になりました。
「…さて、その時、私たちが、(その時は、直木のほかに、芥川、菊池、田中純、私、の四人が)東京駅から、午後六時の汽車で、立ったのを、大正九年の十一月十九日、とすると、二十日の夜は、大阪の堀江の茶屋に、とまり、二十一日の晩は、芥川と私と久米は、生駒山麓の妙な茶屋に、とまり、二十二日の夜は、芥川と私は、京都の鴨川の岸の珍な茶屋に、とまり、二十三日の晩は、芥川と私は、下諏訪の宿屋に、とまった、といふ事になる。それから、里見と久米は、二十日の午後十二時頃に東京駅を出る汽車に、のりこんだ。 ところで、二十一日の朝の五時ごろに、私たちは、京都で、おりた。…」
 すごいメンバーでの旅行ですね。当時としてはそんなことはなかったのでしょう。今回は9月20日の大阪に泊まる前に京都を訪ねた時を歩いてみました。大阪編は次回に掲載する予定です。

【宇野浩二(うのこうじ)本名:宇野格次郎】
福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区荒戸一丁目)に生まれる。3歳のときに父が脳溢血で急死、親戚を頼って神戸へ移る。その後4歳のときに大阪に移住、大阪市東区糸屋町一丁目、次いで花柳界に近い南区宗右衛門町に住んだ。育英第一高等小学校を経て天王寺中学校(天王寺高等学校の前身校)に入学。親戚から学資の援助を得て早稲田大学英文科に入学。1913年4月に小説集『清二郎 夢見る子』を白羊社から出版。1919年に『蔵の中』を『文章世界』に発表、さらに同年、『苦の世界』を『解放』に発表し、新進作家として文壇で認められる。また、広津和郎、谷崎精二、芥川龍之介を友人とした。私小説作家だが、『子を貸し屋』のようなフィクションもある。「文学の鬼」と呼ばれた。 1949年、芸術院会員。1951年、『思ひ川』で読売文学賞。晩年には広津とともに松川事件被告の救援運動に参加したことで知られている。弟子として水上勉がいる。1961年9月死去

【芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芥川龍之介の京都地図(今回歩いた路です。推定)


芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月 友人と共に関西旅行



「七条大橋」
七条大橋>
 芥川龍之介一行は11月19日に東京を発って大阪に向かいます。どういう訳か大阪市内の大阪毎日新聞社を訪ねるはずが、手前の京都で降りてしまいます。この辺から宇野浩二の「芥川龍之介」に沿って歩き始めます。
「…大阪に行く筈であるのを、京都でおりたのは、直木が、だまつて、汽車をおりたからである。これは、田中をのぞいて、芥川も、菊池も、私も、この旅行に出る三日まへに、直木(その時分は植村宋一を、はじめて、知ったので、それに、その時の旅行は一さい直木まかせであったから、その時の行動は、かりに、私たちを羊とすれば、直木は、羊たちをみちびく、羊犬(つまり、シイブ・ドッグ)であった。それで、ふかい霧のたちこめてゐる、早朝の、京都の町を、七条の駅の前から、三十三間堂のそばを通って、東山のはうへ、黙々として、あるいて行く直木のあとから、芥川も、菊池も、私も、ほとんど無言で、あるいた。…」
 京都駅の南側が八条通りですから、京都駅を少し上がったところが七条通りになります。東本願寺の南端の方が分かるかもしれません。七条通りを東に少し歩くと鴨川となり、七条大橋(当時も七条大橋と呼ばれていたかどうかは不明)となります。

左上の写真が現在の七条大橋です。西側から撮影しています。このまま七条通りを少し歩くと右側に三十三間堂となります。

「わらじや」
わらんぢや>
  2007年8月22日メニューを追加
  2007年8月24日谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を追加

 『わらんぢや』は「わらじや」として現存するようなのですが、本に書かれている『わらんぢや』と現在の「わらじや」の名前が少し違うことと、場所が違うようです。
「…やがて、東山公園の『わらんぢや』に、はひつた。『わらんぢや』は、大根の「ふろふき」(大根をゆでて、そのあつい間に、味噌をつけてたべるもの)を名物とする家であるが、かへつてそれがゲテのうまさがあるのと、たしか、早朝だけ開業してゐるのとで、名代の家である。…」
 現在の「わらじや」さんは鰻雑炊が有名なのですが、上記に書かれている『わらんぢや』さんは大根の「ふろふき」が有名だったようです。場所も当所『わらんぢや』さんは東山公園内にあったと書かれていますが、当時の地図を見ても東山公園の場所が分かりませんでした。円山公園の間違いではなさそうです。何方かご存じの方はいらっしゃいませんか?

 谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」にも「わらんじや」のことが書かれていました。
「京都に「わらんじや」と云う有名な料理屋があって、こゝの家では近頃まで客間に電燈をともさず、古風な燭台を使うのが名物になっていたが、ことしの春、久しぶりで行ってみると、いつの間にか行燈式の電燈を使うようになっている。いつからこうしたのかと聞くと、去年からこれにいたしました。蝋燭の灯ではあまり暗すぎると仰っしゃるお客様が多いものでござりますから、拠んどころなくこう云う風に致しましたが、やはり昔のまゝの方がよいと仰っしゃるお方には、燭台を持って参りますと云う。で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたゝく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。…」
 この「陰翳礼讃」は昭和8年に書かれており、芥川龍之介が訪ねたのは大正9年ですから、かなり後になります。食事のことについて書かれていないのが残念です。

右上の写真が現在の「わらじや」さんです。七条通りに面していて、三十三間堂の斜め前、三十三間堂交差点西入北にあります。先日、お店を訪ねてきました。宇野浩二の書いた「大根のふろふき」はありませんでしたが、ただ一つのメューである「鰻雑炊」を食べてきました。メュー的には、抹茶から始まって前菜、鰻のスープ(鰻の骨抜きぶつ切りと京ネギ、ふ)鰻雑炊(鰻の白焼き)、デザート の順でした。量が多いのでおなかを空かしていかないと食べきれません。私は二階の大部屋でしたが、一階の奥には茶室のような小さな部屋もあるようです。

「南禅寺」三門
南禅寺>
 直木三十五は『わらんぢや』で食事をした後、芥川龍之介一行の先頭に立って京都市内を歩き回ります。朝5時に京都駅に着いて直ぐに歩きだし、10時には再び京都駅に戻っています。5時間ですが、食事の時間もありますので実質3時間くらい歩いたことになります。
「…その『わらんぢや』で食事をするあひだも、『わらんぢや』を出てからも、直木は、やはり、一と言も、口を、きかなかつた。(口をきかない、といへば、これも、前に、書いたことがあるが、東京駅の二等待合室で、芥川と顔をあはした時、両方がはじめて口をきいたのは、「君は、植村を、知ってるの、」「いや、こなひだ、たのみにきた時、はじめてだ、」といふ言葉であった。それから、汽車のなかで、寝台車の中の喫煙室に通じるほそい廊下で、芥川とゆきあった時、芥川が、「きみ、植村って、こっちから、話しをしたら、ものをいふよ、」と、いった。それだけである。)さて、『わらんぢや』を出てからも、直木は、やはり、だまつて、あるきつづけた。やがて、智恩院のそばも通り、南禅寺の門の前もすぎた。「ものはいはないけど、植村は、実に足の達者な男だね、」と、芥川が、いった。…」
 京都見学を朝早くから4時間で済ましてしまったようです。信じられませんね、昔の人はよく歩いたようです。

左の写真が南禅寺の三門です。知恩院から南禅寺の三門を通り、聖護院の前も歩いていますから信じられないくらいに早く歩いています。

「八百卯」二階より
鎰屋>
 「鎰屋」はここにも書かれていますが、梶井基次郎の「檸檬」で有名です(「檸檬」はずっと後で書かれています)。
「…そのうちに、聖護院の前をとほり、それから、寺町の通りに出て、しばらくあるいたところで鎰屋の二階にあがった。(鎰屋は、ずつと後に、梶井基次郎が、名作『檸檬』のなかにも、書いてあるやうに、その頃の京都にしばらくでも滞在した人には、おくゆかしい、なつかしい、喫茶店である。)しかし、鎰屋の二階にあがって、一服した時は、私たちは、へとへとになり、みな、いくらか、不機嫌になって、ロをきく元気さへ、なくなった。」
 「鎰屋」は寺町通り二条ですから、聖護院からはかなりの距離です。芥川龍之介一行はよく歩きます

右上の写真が梶井基次郎の「檸檬」で登場する果物屋の「八百卯」の二階から見た「鎰屋」跡(ampmコンビニになっていました。少し前まではSSだったようです。)です。コンビニの写真も掲載しておきます。
「…ところが、直木は、ひとり、平気な顔をして、鎰屋を出ると、また、さっさと、あるきだした。私たちは、足をひきずりながら、直木のあとに、つづいた。直木は、私たちが、一二歩おくれてあるいてゐても、一間ぐらゐはなれてあるいてゐても、すこしもかまはずに、おなじあるき方で、あるいてゐた。やがて、あの古風な七条の停車場の建物が、見えだした時、私のすぐそばをあるいてゐた、芥川が、例の鼻声のやうな低い声で、「‥‥今日は、二里ちかく、あるかされたね。……きみ、植村といふ男は、一種の不死身だね、」と、いった。すると、その時、突然、私たちより半間ぐらゐおくれて、のろのろと、あるいてくる、菊池が、「……ぼくは、腹が、すいた」……と、もちまへのカン高い声で、(ちょっと情なささうに聞こえる声で、) いった。「かういふ時に、空腹をうつたへる、菊池ひろしは、きみ、猛者だね、」と、芥川が、私に、いった。(芥川は、私の記憶では、『キクチ』と姓だけを、いふ時のほかは、かならず、『キクチ・ヒロシ』と、いった、これが、本当の読み方である、と、いはんばかりに。)京都駅で、大阪に行くために、私たちが、汽車にのつたのは、午前十時頃であった。…」
 まあよく京都市内を歩きました。感心します。地図で距離を図ってみたら13Km程ありました。3時間の距離ですね。「八百卯」は日曜日はお休みですのでご注意ください。読者としては一度は訪ねてみたい「八百卯」の二階です。ここで檸檬ジュースなどを飲みながら鎰屋の跡地を眺めるのもなかなかです。(残念ながら「八百卯」はご主人が亡くなられて閉店されました)

次回も引き続いて「芥川龍之介の大阪を歩く」を掲載します。