●芥川龍之介の京都を歩く -1-
 初版2012年3月11日<V01L02> 暫定版
 今回は荷風を少しお休みして「芥川龍之介の京都を歩く -1-」を掲載します。以前に大正9年の京都訪問を掲載しましたが、今回の訪問は大正6年なので、今回を”-1-”として、大正9年の京都訪問を”-2-”と改版します。芥川龍之介が初めて京都を訪問したのがこの大正6年で、父親とともに京都・奈良観光をしています。

「旧友芥川龍之介」
<「旧友芥川龍之介」 恒藤恭著>
 芥川親子の京都観光、いや、見物をアレンジしたのは第一高等学校での友人恒藤恭氏でした。恒藤恭氏は芥川龍之介についてかなり多く書きのこしており、非常に参考になります。恒藤恭氏は第一高等学校卒業後、京都帝国大学に進んでいます。
 芥川龍之介が恒藤恭氏について書いています。
「 恒藤恭は一高時代の親友なり。寄宿舎も同じ中寮の三番室に一年の間居りし事あり。当時の恒藤もまだ法科にはいらず。一部の乙組即ち英文科の生徒なりき。
 恒藤は朝六時頃起き、午の休みには昼寝をし、夜は十一時の消灯前に、ちゃんと歯を磨いた後、床にはいるを常としたり。その生活の規則的なる事、エマヌエル・カントの再来か時計の振子かと思う程なりき。当時僕等のクラスには、久米正雄の如き或は菊池寛の如き、天縦の材少なからず、是等の豪傑は恒藤と違い、酒を飲んだりストオムをやったり、天馬の空を行くが如き、或は乗合自動車の町を走るが如き、放縦なる生活を喜びしものなり。故に恒藤の生活は是等の豪傑の生活に対し、規則的なるよりも一層規則的に見えしなるべし。僕は恒藤の親友なりしかど、到底彼の如くに几帳面なる事能わず、人並みに寝坊をし、人並みに夜更かしをし、凡庸に日を送るを常としたり。
 恒藤は又秀才なりき。格別勉強するとも見えざれども、成績は常に首席なる上、仏蘭西語だの羅甸語だの、いろいろのものを修業しいたり。…」

 ”エマヌエル・カントの再来”とは凄いです。この恒藤恭氏が芥川親子の京都見物を引き受けたわけです。この京都見物を恒藤恭氏が「旧友芥川龍之介」のなかに書き残しています。
「…  八 嵐山のはるさめ

 父親の道章氏を同伴して芥川が京見物に來たことがある。大正六年の春のことであったかと思ふ。「江戸っ子の出不精」といって、生粋の東京人は遠方へ出かけることを億功がる傾向があったやうだ。『箱根から東にはお化けは出ない』といふ諺も、いくらかその事と関係がありさうだ。道章氏の場合もその一例であって、めつたに東京と離れたことはなく、遠方への旅行は、その京見物の時が、最初の、そして最後のことではなかつたかと思う。

 芥川はその前年の十二月に海軍機関学校の嘱託教官となり、自分だけは鎌倉に住んでゐた。春の休暇を利用しての旅行であったが.謂つて見れば、親孝行の上方見物であった。まへの年の二月には、菊池寛、久米正雄、松岡譲、成瀬正雄などの諸君と第四次の「新思潮」を創刊し、その第一号に載せた「鼻」は、夏目さんの賞賛をうけた。七月には東大の英文科を卒業し、九月の新小説に「芋粥」を、十月の中央公論に「手巾」を発表して、いづれも好評を博した。まだ結婚はしてゐなかったけれど、たしか既に婚約は成立してゐたかと思ふ。いろいろの意味において芥川の生活が最もめぐまれた状態にあった時であったので、その京見物の折りの芥川たちはいかにも楽しさうな親子の旅のすがたであった。何しろずゐぶん以前の事なので、その時のことはほとんど忘れてしまったけれど、三人で嵐山へ行ったことだけが、不思議とはっきりと頭の中に残ってゐる。…」

 タイトルが”嵐山のはるさめ”ですから、嵐山のことが一番記憶に残っていたのだとおもいます。第一高等学校の友人ですから、心置きなく楽しむことができたのではないでしょうか。

左上の写真は恒藤恭氏の「旧友芥川龍之介」です。発行が昭和59年ですからだいぶくたびれています。カバーを外せばきれいな本ですから読むのには問題ありませんでした。

二代目「京都駅」
<京都駅>
 毎回書いていますが、どの文士(あえて文士)も京都を書くときは、まず京都駅からです(夏目漱石も谷崎潤一郎も)。その上、谷崎潤一郎の時もそうでしたが、新聞社から紀行文を頼まれることが多いわけです。そこで前借りして遊びに行くパターンです。今回の芥川親子は純粋の自腹旅行のようです。
 芥川親子が京都を訪ねた時期は大正6年ですから、京都駅は二代目になっています(京都駅は大正3年に改築されています)。

左上の写真が二代目京都駅です。上記にも書きましたが大正3年に建て直されています。
 大正9年の京都訪問は宇野浩二の「芥川龍之介」に書かれています。
「…さて、その時、私たちが、(その時は、直木のほかに、芥川、菊池、田中純、私、の四人が)東京駅から、午後六時の汽車で、立ったのを、大正九年の十一月十九日、とすると、二十日の夜は、大阪の堀江の茶屋に、とまり、二十一日の晩は、芥川と私と久米は、生駒山麓の妙な茶屋に、とまり、二十二日の夜は、芥川と私は、京都の鴨川の岸の珍な茶屋に、とまり、二十三日の晩は、芥川と私は、下諏訪の宿屋に、とまった、といふ事になる。それから、里見と久米は、二十日の午後十二時頃に東京駅を出る汽車に、のりこんだ。 ところで、二十一日の朝の五時ごろに、私たちは、京都で、おりた。…」
 今読むとすごいメンバーでの旅行ですね。芥川龍之介は二度目の京都なので少しは余裕があったとおもいます。

【恒藤 恭(つねとう きょう、1888年12月3日 - 1967年11月2日)】
島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。島根県立第一中学校(後の松江北高等学校)から第一高等学校第一部乙類(英文科)に入学。第一部乙類の同期入学には芥川龍之介、久米正雄、松岡讓、佐野文夫、同年齢の菊池寛らもいた。2年生になり寮で同室となった芥川龍之介、長崎太郎、藤岡蔵六、成瀬正一らと親交を深めた。1913年に第一高等学校第一部文科を卒業、京都帝国大学法科大学政治学科に入学した。恭は文科から法科への進路変更について、芥川との交流で自身の能力の限界を知ったと述べている。芥川とは文通による交流が続いた。また、失恋で失意にあった芥川を故郷の松江に招いている。1916年に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業、大学院に進学し、国際公法を専攻した。11月に恒藤規隆の長女・まさと結婚、婿養子になり恒藤姓となる。瀧川事件で京都帝国大学法学部を辞任した教官の一人としても知られる。(ウィキペディア(Wikipedia)参照)

【芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、号は澄江堂主人、俳号は我鬼】
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町一番地(現在の中央区明石町10−11)で父新原敬三、母フクの長男として生まれています。父は渋沢栄一経営の牛乳摂取販売業耕牧舎の支配人をしており(当時は牧場が入船町に有った様です) 、相当のやり手であったと言われています。東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から昭和2年7月23日夜半自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


芥川親子の京都地図 -2-(今回歩いた路です。推定)


芥川龍之介の京都地図 -1-(大正9年に歩いた路です。推定)


芥川龍之介の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 芥川龍之介の足跡
大正5年 1916 世界恐慌始まる 24 7月 東京帝国大学英吉利文学科卒業
12月 海軍機関学校教授嘱託になる
鎌倉町和田塚に下宿
塚本文さんと婚約
大正6年 1917 ロシア革命 25 4月 父親と京都・奈良を見物
9月 鎌倉から横須賀市汐入に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 26 2月 塚本文さんと田端の自宅で結婚式をあげる
大阪毎日新聞社社友となる
3月 鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構える
大正8年 1919 松井須磨子自殺 27 3月 海軍機関学校を退職
4月 田端の自宅に戻る
大正9年 1920 国際連盟成立 28 11月 友人と共に関西旅行



「下鴨森本町六番地」
<恒藤恭宅>
 芥川親子はは大正6年4月11日夜に東京を発ちます。芥川からの電報は『ジウニニチアサシチジツク』ですから、12日7時京都着となります。身近にある時刻表は大正4年版と大正10年版ですから、大正4年3月の時刻表を参照します。東京発神戸行18時25分の急行(当時の特急は昼間のみ)で、京都着は翌日の7時11分の列車を見つけることができました(下記に”七時すぎに下り列車が着いた”と書かれていますので間違いないとおもいます)。
 恒藤恭氏の「旧友芥川龍之介」からです。
「… そのころ私たちは下鴨の糺の森に臨んだ小さな二階家に住んでゐた。四月十一日の夕かた芥川から『ジウニニチアサシチジツク』といふ電報がとどいたので、あくる朝早く起きて、家内と二人で京都駅に行った。七時すぎに下り列車が着いたけれど、芥川父子のすがたが見えないので.十時着の列車まで侍ったけれど、やはり二人のすがたは見当らなかった。「どうしたのだらう。行き違ったのかしら」と不思議がりながら二人は下鴨の家に帰った。
 果たして行きちがひであったのかどうか忘れてしまったけれど、その日の午後芥川父子は俥に乗ってやって來た。森を見下ろす二階の部屋でしばらく話した後、下鴨神社に案内した。…」

 『ジウニニチアサシチジツク』と7時11分着は芥川龍之介にとっては同義語であったとおもいます。7時11分着の急行は一等、二等のみでした。後の9時6分着、10時13分着は神戸行の三等急行で、芥川親子は二等以上にしか乗らなかったとおもいますので、この列車には乗らなかったはずです。その後の列車は14時39分着で、一等、二等ともありましたので、この列車で京都に着いたものとおもわれます。つまり、当初乗る予定だった列車に乗り遅れて、二等以上のある14時39分着の列車で来たと推定できます。

左上の写真のビルのところが恒藤恭氏が当時住まわれていた下鴨森本町六番地です。下鴨神社の参道の西側横になります。参道横の道から撮影した写真も掲載しておきます。

「鳥居楼本館」
<駅の前の鳥居楼>
 芥川親子は恒藤恭氏宅には泊らず、旅館に宿をとっていました。京都駅前の鳥居楼です。旅慣れた客なら三條小橋付近か、麩屋町辺りの旅館に宿泊するのが普通とおもいますが、あまり京都の知識が無かったのか、旅慣れしていなかったのか、駅前に宿泊しています。
 恒藤恭氏の「旧友芥川龍之介」からです。
「… 芥川たちは駅の前の鳥居楼に宿をとってゐた。そのあくる日、つまり四月十三日のあさ、そこを訪ねて、先づ東本願寺に二人を案内した後、四條大宮から嵐山電車に乗った。…」
 列車に乗り遅れたのも含めて、旅慣れしていなかったというのが正解だとおもいます。

右の写真が京都駅前の鳥居楼本店です。戦前の鳥居楼は京都駅前に本店と支店の二館がありました。本店は木造三階建てで東洞院通り沿いに、支店は3階建てのビルで、塩小路通りと烏丸通りの交差点北東角(京都駅正面)にありました。支店がいつ建てられたかは不明で、推定ですが本店に宿泊したのではないかとおもいます。現在は支店のところに鳥居ビルが建っています。本店は不明です。

「とっつきの茶店付近」
<とっつきの茶店>
 京都に到着した翌日、芥川親子は待ちに待った京都見物に出かけます。清水寺などの東山周辺かとおもったのですが、4月中旬ですから桜が丁度満開だった嵯峨野に向かいます。中学生の修学旅行になってしまっています。
 恒藤恭氏の「旧友芥川龍之介」からです。
「… 芥川たちは駅の前の鳥居楼に宿をとってゐた。そのあくる日、つまり四月十三日のあさ、そこを訪ねて、先づ東本願寺に二人を案内した後、四條大宮から嵐山電車に乗った。終点で下車すると、すぐ渡月橋の方へあるいて行った。橋を渡らないで右へ折れて、とっつきの茶店の赤い毛氈の敷いてある床几にこしかけて休んだ。そこで平たい皿に盛った花見だんどをたべながら芥川がしきりに東京を出発してからの老人の旅慣れぬ様子のことなどをしゃべった。
 それから私たちは流れに沿うた堤のみちをぶらぶらあるいて行って、亀山公園の松林の中にはいった。晝過ぎになったので.小高いとこちにある茶店に立ち寄って、簡単な晝食をとった。そのうちに雨模様となった。向ひの山を蔽ふ樹々の濃い翠りいろの中に、ほのかな赤みを帯びた櫻のはなのかたまりが浮きあがってゐるのが、眼に沁みてうつくしかつた。雨はかすかな絲すぢを白く引いて降り、葦を着た舟人をのせて、いくつもの筏がゆるやかに眼の下の碧い流れを下って行った。
 道章氏は、縁先きの松の木蔭にたたすみながら、感にたへないやうな顔つきで眺めてゐたが、「さくらはやはり松の中に咲いてゐるのが佳いんだな。」と私たちをかへりみて言った。
 すると芥川が間髪をいれす、「松の中に櫻が咲いてゐるんで感心したのぢやなくて、さくらが咲いてゐるんで松に感心しちやつたのでせう。」 といってわらつた。道章氏も釣りこまれて、わけなく「あはは」とわらつた。…」

 上記に書かれたとおりに訪ねてみました。
1.嵐山まで:鳥居楼→東本願寺→(京都市電)→四条大宮→(嵐山電鉄)→嵐山駅
2.嵐山見物:嵐山駅→渡月橋手前を右へ→茶店で休憩→亀山公園内で昼食→嵯峨駅
3.金閣寺へ:嵯峨嵐山駅昔の嵯峨駅)→(山陰本線)→二條駅

写真の付近が渡月橋の手前を右に曲り少し歩いたとっつき付近です。戦前はこの写真の右側に三軒屋という有名な茶店がありました。推定ですが、芥川親子もこの三軒屋で休んだのだとおもいます。

「北野天満宮」
<北野の天神>
 桜見物の後は寺社巡りになります。父親と一緒ですからやはり観光地巡りが必要なわけです。
恒藤恭氏の「旧友芥川龍之介」からです
「… それから私たちは嵯峨駅から汽車に乗って二條駅に引き返し、北野の天神に参詣した後、金閣寺を見物した。夕方、四條通りを東へあるいて行き、都踊りを見た。
 その翌日は芥川父子だけが奈良へ見物に行った。夕がた私と家内とは芥川父子に贈るために二條木屋町へ行つて「大原ふご」を買ひ、四條の縄手上ルで「鷺知らず」を買つたうへ、鳥居楼に行った。芥川は奈良で買ったのだと言って、古い鏡を見せて呉れれた。親子二人は八時二十分の汽車で京都を去って行き、私たち二人は圓山公園に寄って、夜ざくらを見てかへつた。」

 此処でも上記に書かれている通りに歩いてみました。
1.金閣寺へ:二條城駅(現在は梅小路機関車館に移設されています)→(京都電気鉄道)→北野天満宮→(徒歩or俥?)→金閣寺
2.京都市内へ:金閣寺→(途中から京都市電?)→四條通りを東へ祇園歌舞練場→宿へ
 京都市電が京都電気鉄道を回収したのは大正7年7月ですから、この頃の京都市内は二社の路面電車が走っていました。

右上の写真が北野天満宮です。あまりに有名です。ここからは観光地メグリです。写真を見て下さい。