<「旧友芥川龍之介」 恒藤恭著>
芥川親子の京都観光、いや、見物をアレンジしたのは第一高等学校での友人恒藤恭氏でした。恒藤恭氏は芥川龍之介についてかなり多く書きのこしており、非常に参考になります。恒藤恭氏は第一高等学校卒業後、京都帝国大学に進んでいます。
芥川龍之介が恒藤恭氏について書いています。
「 恒藤恭は一高時代の親友なり。寄宿舎も同じ中寮の三番室に一年の間居りし事あり。当時の恒藤もまだ法科にはいらず。一部の乙組即ち英文科の生徒なりき。
恒藤は朝六時頃起き、午の休みには昼寝をし、夜は十一時の消灯前に、ちゃんと歯を磨いた後、床にはいるを常としたり。その生活の規則的なる事、エマヌエル・カントの再来か時計の振子かと思う程なりき。当時僕等のクラスには、久米正雄の如き或は菊池寛の如き、天縦の材少なからず、是等の豪傑は恒藤と違い、酒を飲んだりストオムをやったり、天馬の空を行くが如き、或は乗合自動車の町を走るが如き、放縦なる生活を喜びしものなり。故に恒藤の生活は是等の豪傑の生活に対し、規則的なるよりも一層規則的に見えしなるべし。僕は恒藤の親友なりしかど、到底彼の如くに几帳面なる事能わず、人並みに寝坊をし、人並みに夜更かしをし、凡庸に日を送るを常としたり。
恒藤は又秀才なりき。格別勉強するとも見えざれども、成績は常に首席なる上、仏蘭西語だの羅甸語だの、いろいろのものを修業しいたり。…」
”エマヌエル・カントの再来”とは凄いです。この恒藤恭氏が芥川親子の京都見物を引き受けたわけです。この京都見物を恒藤恭氏が「旧友芥川龍之介」のなかに書き残しています。
「… 八 嵐山のはるさめ
父親の道章氏を同伴して芥川が京見物に來たことがある。大正六年の春のことであったかと思ふ。「江戸っ子の出不精」といって、生粋の東京人は遠方へ出かけることを億功がる傾向があったやうだ。『箱根から東にはお化けは出ない』といふ諺も、いくらかその事と関係がありさうだ。道章氏の場合もその一例であって、めつたに東京と離れたことはなく、遠方への旅行は、その京見物の時が、最初の、そして最後のことではなかつたかと思う。
芥川はその前年の十二月に海軍機関学校の嘱託教官となり、自分だけは鎌倉に住んでゐた。春の休暇を利用しての旅行であったが.謂つて見れば、親孝行の上方見物であった。まへの年の二月には、菊池寛、久米正雄、松岡譲、成瀬正雄などの諸君と第四次の「新思潮」を創刊し、その第一号に載せた「鼻」は、夏目さんの賞賛をうけた。七月には東大の英文科を卒業し、九月の新小説に「芋粥」を、十月の中央公論に「手巾」を発表して、いづれも好評を博した。まだ結婚はしてゐなかったけれど、たしか既に婚約は成立してゐたかと思ふ。いろいろの意味において芥川の生活が最もめぐまれた状態にあった時であったので、その京見物の折りの芥川たちはいかにも楽しさうな親子の旅のすがたであった。何しろずゐぶん以前の事なので、その時のことはほとんど忘れてしまったけれど、三人で嵐山へ行ったことだけが、不思議とはっきりと頭の中に残ってゐる。…」。
タイトルが”嵐山のはるさめ”ですから、嵐山のことが一番記憶に残っていたのだとおもいます。第一高等学校の友人ですから、心置きなく楽しむことができたのではないでしょうか。
★左上の写真は恒藤恭氏の「旧友芥川龍之介」です。発行が昭和59年ですからだいぶくたびれています。カバーを外せばきれいな本ですから読むのには問題ありませんでした。