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最終更新日:2006年12月25日



●「愛と死をみつめて」の大阪を歩く
  初版2006年3月25日
  二版2006年4月1日
信濃寮、阪急百貨店の屋上他を追加修正
  三版2006年4月16日 「住吉大社のお守り」と出入橋踏切の写真を追加、一部修正

  四版2006年9月6日 天神祭りと南塚口住宅を追加
  五版2006年12月25日 <V01L01> 来々軒の写真を追加

 「愛と死をみつめて」の大阪を歩きます。2006年3月18日、19日二夜連続で朝日放送系で「愛と死をみつめて」が放映されました。草なぎ剛と広末涼子が好演しています。当ページへのアクセス数が多いため、ページを分割して掲載します。

お二人の名前については、ミコ(大島みち子)さん、マコ(河野実)さんと書かせて頂きます。ミコ(大島みち子)さんについては正式には大嶋みち子さんです。マコ(河野実)さんは現在は河野實と掲載されています。

大阪駅から阪大病院付近地図


ミコとマコの年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

二人の足跡

昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
-
8月 マコ(河野実)さん大阪市に生まれる
昭和17年
1942
ミッドウェー海戦
0
2月 ミコ(大島みち子)さん西脇市に生まれる
昭和32年
1957
天城山心中
15
3月 ミコ(大島みち子)さん西脇中学校卒業
4月 ミコ(大島みち子)さん県立西脇高等学校入学
昭和33年
1958
若乃花が横綱になる
長嶋茂雄がプロデビュー
16
5月 ミコ(大島みち子)さん県立西脇高等学校二年生の時に発病、神戸医大付属病院に入院(二カ月で退院)
退院後、休学して神戸医大付属病院に通院
昭和34年
1959
皇太子殿下ご成婚
17
9月 神戸医大付属病院に再入院(一カ月で退院)
11月 大阪大学付属病院(阪大病院)を訪ねる
昭和35年
1960
三池闘争
安保闘争
18
3月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院南二階へ入院
7月 阪大病院南館共同炊事場で二人は初めて出会う、文通を始める
11月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院を退院し西脇高校に復学
昭和36年
1961
ケネディ大統領就任
19
4月 マコ(河野実)さん中央大学入学
昭和37年
1962
YS11初飛行
キューバ危機
20
4月 ミコ(大島みち子)さん同志社大学文学部社会学科入学
7月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院に再入院、マコ(河野実)さん大阪駅でアルバイト、マコとミコ再会する。ミコ(大島みち子)さん日記を書き始める
10月 マコ(河野実)さん大阪に来る
11月ミコ(大島みち子)さん手術を受ける
昭和38年
1963
黒澤明監督の「天国と地獄」
こんにちは赤ちゃん
21
2月 ミコ(大島みち子)さん再手術を受ける
3月 マコ(河野実)さん大阪に来る
7月 マコ(河野実)さん大阪に2回来る
8月7日 ミコ(大島みち子)さん死去
8月8日朝、マコ(河野実)さん大阪に来る


大阪大学医学部付属病院南館>
 ミコ(大島みち子)さんとマコ(河野実)さんの最初の出会いは昭和35年7月、大阪大学医学部付属病院南病館でした。「…昭和三十五年(一九六〇)七月八日、場所は病院の共同炊事場。「どなたの看病をしているのですか?」 ボク、河野実が声をかけた。「私が病人です」 その女性、後にミコと呼ぶようになった、大島みち子さんが答えた。『愛と死をみつめて』の物語は、この会話からすべてがはじまった。二人は大阪大学医学部附属病院(以下阪大病院)耳鼻科病棟(南館二階)に入院していた。ボクは耳の手術で信州から入院した。大阪の住友金属に勤めていた父が、入院の予約をしてくれたからだ。……「河野さん、私一晩考えたのですけど、河野さんがOKしてくれるのであれば、今後お手紙の交換をしていただきたいの。いかがですか?」「大島さんさえよければ喜んで……。でも、ボクのへタクソな手紙なんか、読んでもらえるかなあ」 「はい、これ住所よ。阪大病院のと西脇の実家のものと二つ書いてあるわ。私はまだ当分退院できないから、信州からどんどんお手紙くれると嬉しいんだけど……。河野さんからお手紙くれないと、私からお手紙出せませんからね」 ハガキ大のメモ用紙に、二つの住所が丁寧な文字で書かれていた。「必ず書きます。でも、大島さんが気に入るような文面を書けるか自信はありませんが……」。なんと楽しい出会いでしょうか。私も若かりし頃、同世代の女性と話すときは胸がときめいたものです(私も年だなぁ‥…!!)。

左上の写真の左側が大阪大学医学部付属病院南病館(正式には南館ではなくて南病館というそうです)が建っていた所です(下記に付属病院の中之島地区配置図を掲載しておきます)。現在は更地になっています(朝日放送が進出されるようです。それで放送したのかな?)。南病館は四階建てで、川の方に向いて建てられていました。上空から見た大阪大学医学部付属病院の写真を掲載しておきます(大阪大学医学部附属病院 看護部のホームページの写真を使わせていただいております)。

福島天満宮> 2006年9月6日追加
 この時二人は初めて近くの福島天満宮のお祭りに出かけます。お祭りですから夜ですね(朝日放送で放映された「愛と死をみつめて」でも夜でした)。「愛と死をみつめて」終章から、「…「河野さん、母と三人で近くの福島天満宮の夜祭に行きませんか?」 …… 阪大病院の裏口から出ると、しばらくして天満宮が見えてきた。ロウソクの灯が入った提灯が参道から境内に向って両側に並んでいた。参道には多くの露店が出ていた。…… 二人だけになったボクたちは、「射的」の前で足を止めた。…」。テレビドラマと同じですね。射的の露店もありました。この福島天満宮のお祭りは天神祭りといって大阪では非常に有名なお祭りです。天神橋二丁目にある大阪天満宮が本宮で、花火大会も有り大阪の夏の風物詩になっています。

★右の写真が福島天満宮の天神祭りです。毎年7月24日〜25日に開催されます。戦後はこの日付は変わっていないので、昭和35年7月も24日か25日に二人はお祭りにいったのだとおもいます。福島天満宮の露店はこの写真の左側の道に出店されていますので、この道を歩いて二人はお祭りを楽しんだのだとおもいます。

住友金属南塚口住宅> 2006年9月6日追加
 マコ(河野実)さんは阪大病院を退院後、父親の勤める住友金属の南塚口住宅を訪ねます。「…父の寮は、阪急神戸線の塚口という駅にある。梅田から急行で十五分か二十分ほどだ。…… 父がいた住友金属園田寮は、塚口駅から徒歩十二、三分のところにあった。「カンペの塗料」と書かれた、大きなコンクリート製の煙突を目指して歩けば、その手前が園田寮である。後に世界的テニスプレーヤーとなる伊達公子を輩出した園田学園を過ぎた辺りは、ネギ畑になっていた。…」。園田寮とあるのはこの南塚口住宅のこととおもわれます。マコ(河野実)さんはこの社宅から初めてミコ(大島みち子)さんに手紙を出し、文通が始まります。この社宅も現在はライオンズマンションになっていました。

左の写真が住友金属の南塚口住宅跡に建てられたライオンズマンションです。上記の文の中で園田寮とありますが住友金属南塚口住宅と地図には書かれていました。またカンペ塗料は神東塗料の工場でした。園田学園はそのまま有りました。ただ、気になるのは一つ手前の駅の園田駅で降りると「カンペの塗料」の関西ペイントの工場があります。

【大島みち子(おおしまみちこ)】
 昭和17年(1942)2月3日兵庫県西脇市生まれ。昭和33年(1958)兵庫県立西脇高校2年在学中に顔面の軟骨肉腫が発病、卒業まで入退院を繰り返すもこの間に、入院先の大阪大学附属病院で河野実さんと出会い文通を始める。昭和37年(1962)同志社大学入学の夏、再発、阪大病院に再入院。一度も退院することなく、昭和38年(1963)8月7日永眠します。(学陽書房参照)

【河野実(こうのまこと)】
 昭和16年(1941)8月8日大阪生まれ。長野県立伊那北高校を卒業後、浪人中に入院した阪大病院で大島みち子さんと出会い文通が始まる。中央大学入学後も文通は続き、二人の往復書簡は3年1カ月間で約400通にものぼった。著書に『愛と死をみつめて』等がある。中央大学商学部を経て東京写真専門学校報道写真科卒業。フリーカメラマン、経済記者を務め、ジャーナリストとなる。「いま企業は何をなすべきか」(大和出版)「脱・官の思想」(共著=現代書林)「素顔のベトナム」(同友館)「巨大市場アジアを狙え」(廣済堂出版)等の著書もある。(河野実さんの名前については、現在は河野實と書かれています)


大阪大学医学部付属病院東館7階>
 ミコ(大島みち子)さんとマコ(河野実)さんが再び合ったのは二年後の昭和37年7月でした(その間、文通は続いていた)。マコ(河野実)さんがミコ(大島みち子)さんに逢うためアルバイトをわざわざ大阪で行ったからでした(大阪駅でビールのホーム売りをした)。「…淑女の病室を訪ねるのに、不意打ちをかけては礼を失する。辺りを見渡すと、公衆電話が目に入った。すぐにダイヤルを回す。「河野ですが、お邪魔していいですか?」 「今どちらですか?」 「病院の玄関です」 「十分後にしていただけますか?」 「わかりました」 勝手知ったる院内を歩き、案内板で東館の位置を確認した。二人が一緒に入院していたのは南館だったからだ。 売店に行って、週刊誌と、セ・リーグの首位争いをしていたタイガースがトップ記事になっていたスポーツ新聞を購入した。ミコさんへのささやかな入院見舞いである。 十分が過ぎたことを確認して、東館七階へ上がった。 七一一号、大島みち子の名前を感慨深く確認してから、カーテン越しに声をかけた。「河野ですが、入っていいですか?」「どうぞ」。…」。これまでは単なる文通相手でした。マコ(河野実)さんはこの時相当勇気がいったのではないかとおもいます。この後、二人は親しくなって恋愛に発展してゆきます。

右の写真の正面辺りに大阪大学医学部付属病院東館がありました。当時の大阪大学医学部付属病院は四階以上はこの東館(当時の東館の写真です)のみだったようです(下記に付属病院の中之島地区配置図を掲載しておきます)。

阪大病院配置図(大阪大学一覧 昭和35年度より)




交差点で>
 昭和37年10月、マコ(河野実)さんはミコ(大島みち子)さんからお別れの手紙を貰います。マコ(河野実)さんはミコ(大島みち子)さんが自殺するのではないかとおもい大阪に向かいます。そして、ミコ(大島みち子)さん、お父さんと相談し手術をすることを決めます。「…三人で大阪駅の東海道線快速電車の改札口まで行き、お父さんを見送った。七時半を過ぎていた。 コンコースの雑踏から、歩道を歩く途中で、ボクはミコさんの右手を取った。ミコさんはボクの手を拒否しなかった。嬉しそうな表情さえ見せた。阪神電鉄の踏み切りを渡るときには、ミコさんは両手でボクの左腕をつかんできた。堂島川に向かうとき、横断歩道で乱暴な運転のクルマが、わざと二人に急接近して急停車したので、ミコさんはボクの腰にしがみつくような仕草をした。 外で恋人らしい振る舞いをしたのは、唯一、この夜だけだった。…」。この二人で過ごした時が一番楽しかったとミコ(大島みち子)さんは日記に書いています(詳しくは日記を読んでください。)。彼女の心情を慮ります。

左上の写真の交差点が、腰にしがみついた出入橋交差点です(河野実さんのホームページを参考にしています)。多分右側の角付近だったとおもいます。写真は出入橋交差点から大阪駅方面を撮影しています。

<買物へ>
 ミコ(大島みち子)さんとマコ(河野実)さんは昭和37年10月16日〜21日までこの楽しいひとときを過ごします。「…ミコさんは、布袋に取っ手がついたような買い物袋を手にした。阪大病院の裏口を出て、裏小路をしばらく歩くと、通称市場と呼ばれていた商店街があった。「マコ、今夜はお肉を食べましょう。ステーキは買えないけれど、ポークかチキンだったら買えるわ」 「ポークって何の肉?」 「ポークを知らないの? ブタ肉のことよ」 「信州では、ただブタ肉と言ってるよ。ポークって言うんだ。じゃあ、ポークのコマ切れとキャベツを買って肉野菜妙めにしよう」 「マコはそれでいいとして、私は何にしようかしら。お味噌汁を作ろうかな。でも味噌はすぐにカビが生えるから、量り売りで買おうかしら」 冷蔵庫のない時代、ビニール袋も発泡スチロールのトレイもなかった。キョウギと呼ばれた木を薄く削ったものや、竹の子の皮などに肉や魚を乗せて二つ折りにしてから、新聞紙に包んでくれた。それを買い物袋に入れたり、竹で編んだ籠に入れて買い物をしていた。 結局、ミコさんは翌日の朝食をコーヒーとハムサンドにすると言って、食パン一斤とハムを五、六枚買っただけだった。…」。ふたりはまるで夫婦ですね。ミコ(大島みち子)さんはマコ(河野実)さんのことを慮ったのでしょう。このふたりでないと心情はわかりません。読者としては涙がでてきますね。

右の写真は大阪大学医学部付属病院の裏手です。上天神南交差点(当時は福島公設市場前交差点といった)を撮影したものです。ミコ(大島みち子)さんとマコ(河野実)さんが初めて出かけた福島天満宮が交差点の先の左側にあります。上記に書かれている”市場と呼ばれていた商店街”は福島公設市場の事ではないかとおもいます。昭和36年10月に福島公設市場前交差点の阪大病院の反対側角にオープンしています(それまでは阪大病院裏口正面に仮設の福島公設市場があった)。写真の左側から二番目のビルの一階です(現在はビルは残っていますが市場は大正区に移っています)。

来々軒(推定)> 2006年12月25日追加
 ミコ(大島みち子)さんがよく食事していた中華料理屋さんです。父親とも度々食事していたようです。「…九月九日 十一時、兄キ、東京へ出発。もう二度と会うことはないと思って、生れて初めて兄キと握手。兄キに家のことは頼んだ。(京都の下宿の)あと始末をする。ほとんど眠っていないので身体がだるい。でも、すっかり片づけて本当に晴々とする。阪急デパート、来々軒で食べたいものを食べて七時前病院着。るすの間にマコから手紙がきていた。…」。なかなか場所が特定できなかったのですが、上記の「若き生命の日記」9月9日から”阪急デパート、来々軒”とあるので、阪急デパートの近くということがわかりました。最初、昭和30年代の大阪商工名鑑を調べたのですが掲載されておらず、仕方がないので昭和42年度の職業別電話番号簿(30年度は未掲載)を調べました。大阪市内で合計13軒掲載されており、阪急デパート近くの北区では「来来:北区小松原21」のみでした。場所的には「阪急東通商店街」の中に有りました。当時の住宅地図でも掲載されていましたので間違いないとおもいます。ただお店の名前が「来来」なのが気になりますが!

左上の写真のお好み焼「美舟」の左側二軒目に「来来」がありました。残念ながら無くなっていました。お好み焼「美舟」は当時のままでした。

お好み焼屋>
 二人が食べたお好み焼屋です。「…いよいよ、翌日帰京する前夜、ミコさんはボクを病院裏手の市場近くにあるお好み焼き屋に連れて行ってくれた。炭火のコンロの上に鉄板が置かれ、コンロの首の部分がテーブルの大きな穴に収まっていた。 二人して、お好み焼きをヘラで裏返したりしながら食べた。信州の鍋焼きよりも、うどん粉が柔らかく、細かく切られたゲソやキャベツなどが入っていた。 東京の祭りの夜に出る屋台のお好み焼きと違って、最初から小麦粉をといた中に、具が入っていて、それをよくかき混ぜてから鉄板の上で焼く。 時間は、あっという間に過ぎてしまった。…」。二人の共同作業が発生するお好み焼きは楽しいですね。デートの場所としては最高ではないでしょうか、私も大好きです。

左の写真の正面やや左の赤い看板のお店です。左側に進むと出入橋交差点になります。現在はたこ焼屋で「田の家」さんでした。ただ、当時の地図を見ると「喫茶あづさ」となっており、お好み焼屋ではないのですが? 河野実さんのホームページを参考にして場所を特定したのですが…‥

、写真正面ビルの喫茶店のマスターやこの付近のことでは一番ご存じだという出入橋きんつば屋さんのご主人にお聞きしたところ、当時の阪大病院裏手にはお好み焼屋さんが何軒かあったとのことでした。

阪急百貨店の屋上> 2006年4月1日追加
 二人は一緒では行ったことが無いのですが、それぞれで阪急百貨店に行っています。「…こざっぱりしたボクは、阪急デパートの上に行き、ドライビングマシーンに挑戦した。しかし、二年ぶりの操作でうまくいかなかったので、すぐにやめてしまった。……「わかった。じゃあ、今から阪急デパートに行ってくるよ」 阪急デパートでライターを買おうと、喫煙具コーナーに行くと、あまりにも多い品数に驚いた。外国製のダンヒルやデュポンになると、この時代でも何万円もした。 ボクはミコさんから渡された三千円で、二千五百円の日本製のライターを購入した。残りの五百円で、ミコさんが以前から読みたいと言っていた『愛と死のかたみ』(山口清人・久代著)を買うため、阪神デパートの隣にある旭屋書店に寄った。…」。大阪駅前だと、当時は阪急百貨店と阪神百貨店しかありませんでした。阪急百貨店の方が高級感がありましたね。現在の阪急百貨店は建て直し工事中で屋上は入れませんでした。上記に書かれいる”ドライビングマシーン”は私の記憶ではベルトの上に道路が書かれていて、その上に模型の車が乗っていて、ベルトが動くとハンドルで車を動かすゲームだったようなきがします。(何方か教えてください)

右の写真が阪急百貨店の屋上です。工事前の写真です。この写真はTKさんよりお借りしています。阪急百貨店の外観は昔のままで、私は大好きです。

阪神電鉄出入橋東踏切>
 昭和38年に入るとミコ(大島みち子)さんの体調が少しづつ悪くなっていきます。昭和38年に入ってからマコ(河野実)さんの初めての訪問は3月27日でした。「…三月二十七日、前年の十月に、ミコさんに 「最高に幸せな五日間」と言わしめてから、五カ月後。再び阪大病院に急いでいる、ボクの胸中は複雑だった。 五カ月前は、全治二〇%前後の希望を見出し、手術に挑戦する決心をしたミコさんと幸せな時間を過ごした。それが現在、生死の間をさ迷った大手術を乗り越えたにもかかわらず、”再発”という残酷非情な現実の真っただ中にいるミコさんに会いに行く。 大阪駅中央口を出て、阪神電鉄福島踏み切りを越える頃、ボクの気持ちは野戦病院で瀕死の重傷を負っている女兵士を見舞う気分だった。…」。この時は3日間過ごします。最後にミコ(大島みち子)さんは堂島川のほとりまで送ってくれます。

 マコ(河野実)さんの二回目の訪問は昭和38年7月18日でした。「…十八日夕方、阪大病院に入った。八階の詰め所に寄ると、意外なことを言われて慌てた。「大島さんは昨日から七階の部屋に変わりました」(まさか、昏睡状態に陥っているのではないだろうか) …… 病室の前まで進んだ。深呼吸をしてドアをノックした。耳を澄ますと、部屋の中からか細いミコさんの声がした。…」。 お互いに辛い時ではなかったのでしょうか。

 マコ(河野実)さんの三回目の訪問は昭和38年7月31日でした。「…西脇のお父さんから、「いよいよ容易ならざる状況に差しかかってきました」という手紙が届いた。 覚悟も決まらないまま、七月三十日の夜行列車に飛び乗った。 翌日朝、部屋を訪ねたが、今度は入り口のノックにも無反応だった。 部屋に入っても、眠っているのか、薬で眠らされているのか、ミコさんはただぐったりとして横たわっていた。…」。言いようが無いです。

 ついにその日がきました。「…帰京して四日目の八月七日正午過ぎ、ミコさんのお兄さんから連絡があった。「みち子は、正午前に亡くなりました」 受話器を置いた瞬間から、ボクの頭の中の時間が止まった。……翌朝八時に大阪駅ホームから駆け足で、阪大病院に急ぐ。阪神電鉄福島踏み切りが、朝のラッシュでなかなか上がらない。 阪大病院に入ると、お兄さんが玄関で待機してくれていた。足早に安置室に入ると、ご両親が沈痛な面持ちでボクを迎えてくれた。…… あの世に送り出すときの衣装は、「幸せな五日間」の最後の日に、ボクを送り出してくれた”正装”だった。病室で「新婚ごっこ」しながら、いつも笑っていたミコさんの顔が、ふいに蘇ってきた。…」。この後、ご両親とマコ(河野実)さんはミコ(大島みち子)さんの遺骨を抱いて西脇に戻ります。

左上の写真は大阪駅から阪大病院に向かう途中にある現在の阪神電車出入橋東踏切跡です。現在は地下化しており踏切は無くなっています(下記の地図を参照してください)。マコ(河野実)さんは福島踏切と書かれていますが、大阪駅からはこの出入橋東踏切が正解です。

右上の写真は1993年撮影の出入橋東踏切です。出入橋から大阪駅側を撮影しています(この写真は「まにあっく阪神」様よりお借りしています)。マコ(河野実)さんは向こう側からこちら側に渡ってきたわけです。マコ(河野実)さんはこの踏切を何回渡ったのでしょうか…‥

朝日放送で放映された翌日の「SMAP SMAP」で伊勢正三氏を呼んで「22才の別れ」をみんなで歌っていました。草なぎ剛さんのご指名だったのでしょうか。青山和子の歌った「愛と死をみつめて」は悲しすぎます。今の世代は「22才の別れ」の方がいいのかもしれません(歌詞は別れの歌ですが)。

この後は本を読んでください。私も読み直します。

阪大病院付近地図





【参考文献】
・「愛と死をみつめて」終章 もうひとりのミコ:河野実 大和書房
・その後の「愛と死をみつめて」 佐智子の播州平野:河野実 フーコー
・愛と死をみつめて ある純愛の記録:河野実 大島みち子 大和書房
・若きいのちの日記 愛と死の記録:大島みち子 大和書房
・大阪大学一覧(昭和35年度):大阪大学総務部

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