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最終更新日:2006年12月25日



●「愛と死をみつめて」 の東京を歩く
  初版2006年3月25日
  二版2006年4月23日 「日立ランプ大森工場」を追加、大阪に行けなかった理由が!
  三版2006年5月6日 
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 「愛と死をみつめて」の東京を歩きます。2006年3月18日、19日二夜連続で朝日放送系で「愛と死をみつめて」が放映されました。草なぎ剛と広末涼子が好演しています。当ページへのアクセス数が多いため、引き続いて今週も追加修正のうえ掲載いたします。

お二人の名前については、ミコ(大島みち子)さん、マコ(河野実)さんと書かせて頂きます。ミコ(大島みち子)さんについては正式には大嶋みち子さんです。マコ(河野実)さんは現在は河野實と掲載されています。


信濃寮> 2006年4月1日追加
 マコ(河野実)さんは一浪の後、昭和36年4月、中央大学商学部に入学します。ここでもマコ(河野実)さんの書かれた『その後の「愛と死をみつめて」 佐智子の播州平野』を参考にします。「…昭和三十八年五月二日、オリンピックまで、あと一年と五カ月に迫っていた東京は、メイン会場の国立競技場と、それに隣接する代々木選手村など、急ピッチで工事が進められていた。首都高速は、新宿−羽田線だけが建設中だった。川田は、中央大学商学部の学生だった。信州・伊那谷の寒村から、両親の反対を押し切って、アルバイトを条件に、一カ月五千円の送金だけで、上京したのが、昭和三十六年の三月。貧乏学生しか入寮を認められない 「信濃寮」 で、三度目の夏を迎えようとしていた。 信濃寮は、創立以来学生たちによって運営される、全国的にも肴有な自治寮だった。大正十二年に建てられた木造築四十年のこの寮には、信州出身の学生たちの歴史と伝統が息づいていた。…」。当時、中野にあった信州出身の学生達のための「信濃寮」はかなり有名だったようです。中央線中野駅を降りてから僅か500mの距離ですから、便利なところです。東京以外の方は分からないかもしれまんせんが、新宿から三駅目、若者の街としては最高です。特にお金のない学生たちの町だったようです。

左上の写真は時期的には少し後で撮影された信濃寮です。この写真は「bipからVIPへの挑戦レポート」の大島様からお借りしました。凄い建物ですね。木造で、今にも崩れそうです。信濃寮は現在は小金井市に移っており、現在は幼稚園と公園になっています。写真中央にある電柱はそのままでした。

【大島みち子(おおしまみちこ)】
 昭和17年(1942)2月3日兵庫県西脇市生まれ。昭和33年(1958)兵庫県立西脇高校2年在学中に顔面の軟骨肉腫が発病、卒業まで入退院を繰り返すもこの間に、入院先の大阪大学附属病院で河野実さんと出会い文通を始める。昭和37年(1962)同志社大学入学の夏、再発、阪大病院に再入院。一度も退院することなく、昭和38年(1963)8月7日永眠します。(学陽書房参照)

【河野実(こうのまこと)】
 昭和16年(1941)8月8日大阪生まれ。長野県立伊那北高校を卒業後、浪人中に入院した阪大病院で大島みち子さんと出会い文通が始まる。中央大学入学後も文通は続き、二人の往復書簡は3年1カ月間で約400通にものぼった。著書に『愛と死をみつめて』等がある。中央大学商学部を経て東京写真専門学校報道写真科卒業。フリーカメラマン、経済記者を務め、ジャーナリストとなる。「いま企業は何をなすべきか」(大和出版)「脱・官の思想」(共著=現代書林)「素顔のベトナム」(同友館)「巨大市場アジアを狙え」(廣済堂出版)等の著書もある。(河野実さんの名前については、現在は河野實と書かれています)


ミコとマコの年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

二人の足跡

昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
-
8月 マコ(河野実)さん大阪市に生まれる
昭和17年
1942
ミッドウェー海戦
0
2月 ミコ(大島みち子)さん西脇市に生まれる
昭和32年
1957
天城山心中
15
3月 ミコ(大島みち子)さん西脇中学校卒業
4月 ミコ(大島みち子)さん県立西脇高等学校入学
昭和33年
1958
若乃花が横綱になる
長嶋茂雄がプロデビュー
16
5月 ミコ(大島みち子)さん県立西脇高等学校二年生の時に発病、神戸医大付属病院に入院(二カ月で退院)
退院後、休学して神戸医大付属病院に通院
昭和34年
1959
皇太子殿下ご成婚
17
9月 神戸医大付属病院に再入院(一カ月で退院)
11月 大阪大学付属病院(阪大病院)を訪ねる
昭和35年
1960
三池闘争
安保闘争
18
3月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院南二階へ入院
7月 阪大病院南館共同炊事場で二人は初めて出会う、文通を始める
11月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院を退院し西脇高校に復学
昭和36年
1961
ケネディ大統領就任
19
4月 マコ(河野実)さん中央大学入学
昭和37年
1962
YS11初飛行
キューバ危機
20
4月 ミコ(大島みち子)さん同志社大学文学部社会学科入学
7月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院に再入院、マコ(河野実)さん大阪駅でアルバイト、マコとミコ再会する。ミコ(大島みち子)さん日記を書き始める
10月 マコ(河野実)さん大阪に来る
11月ミコ(大島みち子)さん手術を受ける
昭和38年
1963
黒澤明監督の「天国と地獄」
こんにちは赤ちゃん
21
2月 ミコ(大島みち子)さん再手術を受ける
3月 マコ(河野実)さん大阪に来る
7月 マコ(河野実)さん大阪に2回来る
8月7日 ミコ(大島みち子)さん死去
8月8日朝、マコ(河野実)さん大阪に来る


日立ランプ> 2006年4月23日追加
 マコ(河野実)さんは母親が心臓病を患い、昭和38年には父親も脳卒中で倒れたため、大変な生活をしていたのだとおもいます。ミコ(大島みち子)さんとの手紙のやり取りの中には父親が病に倒れたことは一切書かれていません(5月には父親と山に登ったと書かれていましたのでそれ以降ですが)。学陽書房版の「愛と死をみつめて」のなかにこのことが書かれていました。「…私の場合は、母が病身の上に、三十八年には父も病に倒れ、弟からの送金は月五千円から七千円であった。大学(中央大学商学部)を辞めて働こうと思っていたが、ミコさんのために出来なかった。私は事実上、大学を休学し、三十八年の春から、当時東京大田区にあった日立ランプに、臨時工として働いていた。この仕事は午後六時から翌朝六時までの夜間労働で、日給千円という破格の待遇だった。まだ大学卒の初任給が一万八千円前後の時代である。…」。これではなかなか大阪には行かれなかったでしょう。私が読んでも、手術後もう少し大阪に行っても良かったのではないかとおもったのですが。嘘の嫌いなマコ(河野実)さんにしてはミコ(大島みち子)さんには隠し通していたようです。

左上の写真の左側から二つ目のビルの所にマコ(河野実)さんが働いていた「日立ランプ大森工場」がありました。写真の右側のビルは大森ペルポートです。JR京浜東北線の大森駅を東口で降りて200m大森ベルポート側に歩いていきます。工場はかなり大きくて現在の西友の所まであったようです。現在は日立大森別館になっています。

中野駅付近地図(東京都中野区)



日立ランプ大森工場跡(東京都大田区大森駅付近)






【参考文献】
・「愛と死をみつめて」終章 もうひとりのミコ:河野実 大和書房
・その後の「愛と死をみつめて」 佐智子の播州平野:河野実 フーコー
・愛と死をみつめて ある純愛の記録:河野実 大島みち子 大和書房
・若きいのちの日記 愛と死の記録:大島みち子 大和書房
・大阪大学一覧(昭和35年度):大阪大学総務部

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