●愛と死をみつめて  【西脇市編】
    初版2006年3月25日
    二版2006年5月 6日 テーマ別にページを分割(現在はこのページのみ)
    三版2006年8月30日 西脇市立日野小学校、西脇中学校の写真を追加
    四版2011年7月24日 CSS版に切り替え、一部改版
  <V01L02> 暫定版

 ファイル容量削減とCSS化のため、暫く掲載をとり止めていましたが、要望が多いためミコ(大島みち子)さんを中心にこのページのみ再掲載します。

 以下は最終更新日の2006年8月の掲載内容をそのまま利用し、一部更新しています。

 

 「愛と死をみつめて」の西脇市を歩きます。2006年3月18日、19日二夜連続で朝日放送系で「愛と死をみつめて」が放映されました。草なぎ剛と広末涼子が好演しています。

 お名前については、ミコ(大島みち子)さんと書かせて頂きます。ミコ(大島みち子)さんについては正式には大嶋みち子さんです。




「大島みち子さんのお墓(大嶋みち子)」
<大島みち子さんのお墓(大嶋みち子)>
 ミコ(大島みち子)さんの墓参りに行ってきました。兵庫県西脇市小坂町の西脇市を見下ろす小高い丘の上にありました。私は初めて訪ねたのですが、すぐにお墓の場所は分かりました。下記にお墓までの道順を地図に掲載しておきます。お墓はミコ(大島みち子)さん一人のお墓でした。亡くなられてから数年して建てられたようです。私が訪ねた時もお花とお線香が供えられていましたので、訪ねる方が多いのではないかとおもいます。ご両親の配慮でしょうか、お墓は丘の一番高いところの手前にあり、ミコ(大島みち子)さんは西脇の町並みを常に見ているようでした。(ミコさんの名前は本では大島みち子さんと書かれていますがお墓は大嶋みち子さんでした)。
 ミコ(大島みち子)さんのお墓がある西脇市は、山陽本線を神戸から姫路方面に向かい、加古川で加古川線に乗換えて、西脇市駅まで約50分乗ります。神戸からは1時間20分位かかります。

上の写真がミコ(大島みち子)さんのお墓です。場所的には不便ですので駅からタクシーで訪ねるのがいいとおもいます(自家用車かタクシー)。目印は春日浄水場です。浄水場の左の道を登ると左側の丘にお墓がたくさん見えてきます。丘の一番上まで登ると、すぐにミコ(大島みち子)さんのお墓を見つけることができます。大島家、大嶋家と同じ名字のお墓が多いので間違わないようにしてください。墓石の右側に「大嶋みち子」と書かれています。(お墓付近の拡大図) 平成8年に亡くなられたお母様のお墓も手前にありました(写真は控えさせていただきます)。

【大島みち子(おおしまみちこ)】
 昭和17年(1942)2月3日兵庫県西脇市生まれ。昭和33年(1958)兵庫県立西脇高校2年在学中に顔面の軟骨肉腫が発病、卒業まで入退院を繰り返すもこの間に、入院先の大阪大学附属病院で河野実さんと出会い文通を始める。昭和37年(1962)同志社大学入学の夏、再発、阪大病院に再入院。一度も退院することなく、昭和38年(1963)8月7日永眠します。(学陽書房参照)

「西脇市小坂町」
<西脇市小坂町>
 ミコ(大島みち子)さんのご自宅は兵庫県西脇市小坂町にありました。西脇市の中心街から少し離れて静かな昔ながらの住宅街でした。実家は織物業を営まれていました。お父さんは娘のミコ(大島みち子)さんを大変かわいがっていたようです。男親は娘がかわいいものです。

上の写真が自宅のある西脇市小坂町です(2006年当時の写真です)。昔ながらの家並みで、車もすれ違うのがやっとの道幅でした。ミコ(大島みち子)さんのご自宅の直接の写真は控えさせていただきました(朝日放送系で放送された「愛と死をみつめて」のDVDにはご自宅の写真が掲載されていましたが!)。


西脇市の位置



「旧西脇駅の写真」
<西脇駅>
 現在の西脇市にあるJRの駅は西脇市駅(旧野村駅)ですが、当時は鍛冶屋線の西脇駅でした(平成2年(1990)廃線になり、加古川線の野村駅が西脇市駅と駅名が変わっています)。当時の西脇駅はアピカ西脇ロイヤルホテル(神姫バス乗り場)になっています。ミコ(大島みち子)さんは大阪や京都へ行くときは当然当時の西脇駅から列車に乗っていたのだとおもいます。

 現在の加古川線は山陽本線の加古川駅から福知山線の谷川駅間を結んでいます。この加古川線は大正時代に設立された播州鉄道が発祥で、その後、播丹鉄道に引き継ぎ、中心路線は加古川と西脇地区を結ぶ鉄道でした。大正13年に野村駅から福知山線の谷川まで延長しています。昭和18年に国有化され、加古川−谷川間が国鉄加古川線、野村駅から分岐していた野村駅−鍛冶屋駅間が国鉄鍛冶屋線となりました。

上記写真が当時の西脇駅です。「淡路島の電車小僧」様のホームページよりお借りしました。ありがとうございます。

「西脇市立日野小学校」
<西脇市立日野小学校>
 ミコ(大島みち子)さんが通った西脇市立日野小学校です(昭和23年4月入学)。「愛と死をみつめて」のDVDが発売されましたが、その中の特典ディスクにミコ(大島みち子)さんの生い立ちが映像化されていました。当時はまだ西脇市は無く日野町立日野小学校でした。昭和27年4月、西脇市制実施に伴い西脇市立日野小学校と改称しています(卒業する時には西脇市立になっていたはずです)。

写真はの写真が西脇市立日野小学校正門です。小坂町の自宅からは北に1.8Km程あります。少し遠いですね。

「西脇市立西脇中学校」
<西脇市立西脇中学校>
 ミコ(大島みち子)さんが通った西脇市立西脇中学校です(昭和29年4月入学)。西脇市立日野小学校と同じく昭和27年4月西脇市政実施に伴い出来た中学校です。

写真は写真は杉原川沿いにある西脇市立西脇中学校です。小坂町の自宅からは1Km程です。日野小学校に比べればはるかに近いですね。写真の右側が杉原川です。




「県立西脇高等学校跡」
<県立西脇高等学校>
 ミコ(大島みち子)さんは県立西脇高等学校に昭和32年4月に入学します。しかし2年生のときに初めて発病しています。その時は神戸医大付属病院に入院します(神戸医大付属病院は神戸市内のJR神戸駅から1Km程山側にあり、その当時はまだ県立で神戸大学医学部付属病院にはなっていなかった)。その後、大阪大学付属病院(大阪市福島区)に移り、再度入院しています。

 ミコ(大島みち子)さんが通った県立西脇高等学校は当時は童子山公園にありました。現在は野村町に移っています。ミコ(大島みち子)さんが住んでいた小坂町からは自転車で杉原川を渡り童子山にある西脇高校に通っていたとおもいます。

写真は童子山公園にある県立西脇高等学校の記念碑です。童子山公園にはまだ運動場が残っていました。

続ける予定です。

西脇市の地図



”愛と死をみつめて”年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 愛と死をみつめて
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 0 2月 ミコ(大島みち子)さん西脇市に生まれる
昭和23年 1948 帝銀事件
太宰治入水自殺
8 4月 ミコ(大島みち子)さん日野小学校入学
昭和29年 1919 造船疑獄
「七人の侍」が公開
洞爺丸遭難
12 4月 ミコ(大島みち子)さん西脇中学校入学
昭和32年 1957 天城山心中 15 4月 ミコ(大島みち子)さん県立西脇高等学校入学
昭和33年 1958 若乃花が横綱になる
長嶋茂雄がプロデビュー
16 5月 ミコ(大島みち子)さん県立西脇高等学校二年生の時に発病、神戸医大付属病院に入院(二カ月で退院)
退院後、休学して神戸医大付属病院に通院
昭和34年 1959 皇太子殿下ご成婚 17 9月 神戸医大付属病院に再入院(一カ月で退院)
11月 大阪大学付属病院(阪大病院)を訪ねる
昭和35年 1960 三池闘争
安保闘争
18 3月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院南二階へ入院
11月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院を退院し西脇高校に復学
昭和37年 1962 YS11初飛行
キューバ危機
20 4月 ミコ(大島みち子)さん同志社大学文学部社会学科入学
7月 ミコ(大島みち子)さん阪大病院に再入院
11月ミコ(大島みち子)さん手術を受ける
昭和38年 1963 黒澤明監督の「天国と地獄」
こんにちは赤ちゃん
21 2月 ミコ(大島みち子)さん再手術を受ける
8月7日 ミコ(大島みち子)さん死去