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最終更新日:2006年3月21日


●阿部定(失楽園)事件を歩く 初版2000年11月11日 <V01L04>



  海外から戻ってきました。少々疲れていますが、今週は頑張りたいと思います。今回は少し古いですが「阿部定(愛のコリーダ、失楽園)」の事件場所を巡ってみました。(下記の住所表記は昭和11年当時のものです)

 事件自体は昭和11年に起こっており、かなり古いのですが、昭和51年に大島渚監督が映画「愛のコリーダ」で有名になり、平成9年には「失楽園」のモデルになったり、最近では大林宣彦監督の「 SADA 」が公開されたりしてマスコミからは常に脚光を浴びている事件です。(昭和11年2月には陸軍将校のクーデターである2.26事件が起こっており、昭和11年は世相が大きく変わろうとしていた時代です)
 昭和11年(1936)5月18日、東京都荒川区尾久町1881、尾久三業地の待合「満佐喜」で男が殺されました。男は50歳位のいなせな格好をした遊び人風で、一週間前から31、2歳位の玄人らしい美人をつれて泊り込んでいました。殺された朝、女は外出しましたが、男はなかなか起きる気配がないので、不信を抱いた待合の女中が午後2時55分ころ、二階の寝室に見に行ったところ、男が蒲団の中で絞殺されていました。男は下腹部を切り取られ、又男の太股には血で「定、吉二人」と書かれており、猟奇な殺人事件として警視庁は尾久署に捜査本部を設け、大捜査を開始しています。

《二人の逃避行から殺人、逮捕に至るまでを歩いてみました。》

<料理屋吉田屋>
 殺された被害者はすぐに中野区新井538(新井薬師の直ぐ傍です)「料理屋吉田屋」の店主石田吉蔵(42歳)、加害者の女も石田方の女中阿部定(31歳)と判明しました。(二人は今でいう上司と部下の不倫関係に有ったわけです)

 左の写真が「薬師あいロード商店街」です。JR中野駅から新井薬師に向かう道で、この写真の右側に男の実家「料理屋吉田屋」があった所で、もう少し歩くと右側に新井薬師があります。

abesada4w.jpg<待合「みつわ」>
 昭和11年4月23日朝、二人は家人にきずかれたため、中野から相次いで家出し新宿駅で落ち合い渋谷区円山町85番地待合「みつわ」に滞在しています。

 左の写真は今の丸山町で、まっすぐ歩いて左側が京王井の頭線「神泉駅」です。渋谷の円山町といえば昔は三業地で有名でした。今の道玄坂と京王井の頭線に囲まれた地区で、今はホテル街ですね。

<待合「田川」>
 4月27日夜から世田谷区玉川1553の待合「田川」に入っています。待合「田川」の女将は元中野区新井町で芸者屋をしていた時に石田が贔屓にしていたことから知っていたようです。女は29日名古屋の知り合いの男の所に向かい、金の工面をしてきています。30日二人は「田川」を出て、尾久の待合「満佐喜」に向かっています。

 右の写真は「待合田川」のあった玉川4丁目9番地当たりです。昔の面影は全くなく、現在は住宅地になっています。玉川電鉄(今の東急電鉄)は明治42年に玉川神社の下の土地を借り受けて、「玉川遊園地」(現在の玉川神社、身延山別院の下あたりで、現在の玉川園とは場所が違います)を造りました。二子玉川駅と瀬田駅(今は駅はありませんが現在の瀬田の交差点当たりと思われます)の間に遊園地駅(今の高島屋ガーデンアイランド付近)を設け、この駅から丸子川沿いに園の入り口まで桜並木を植え、一万坪にわたる園を作りました。その遊園地に行く途中に三業地ができたわけです。多摩川の川沿いにも料亭ができており、全盛期は昭和6年で、三業地は昭和34年に廃止されました。

<待合 満佐喜(まさき)>
 4月30日の夜から1日の夜まで二人はここに泊まっていましたが、「田川」の勘定を払う為、再び二子玉川に戻っています。しかしながら5月3日にはまた「満佐喜」に帰ってきています。「田川」にいると家人にばれてしまうと思ったようです。5日には金を工面してくれた名古屋の知り合いの男が上京してきた為、会いに行っています。6日には分かれようということで一度分かれています。しかし分かれられず11日再び会って殺人事件が起こる18日まで「満佐喜」に滞在しています。今で言えばラブホテルを泊まり歩いていたようです。
 尾久の町は大正2年王子電車(現在の都電荒川線)が飛鳥山から三輪までの開通と翌年に碩運寺(せきうんじ)で温泉が発見されたことで発展を遂げました。寺の湯は不老閣として独立し、その周りに温泉旅館が次々に誕生し、これが尾久の三業地の元となりました。(戦後、工場の地下水汲み上げで温泉が出なくなり廃業が相次ぎました)

 左の写真は「満佐喜」の有った所です。正確には写真の正面から左奥に三軒目で三階建ての家に建て替えられています。この尾久も昔の三業地の面影はほとんどなく、住宅地となっています。写真の左正面の料亭「いろは」が昔の面影を留めている位です

<満佐喜の名前について>
 書いてある本によって読み方、漢字が違います。「満左喜」、「満佐喜」、「正木屋」といろいろです。冨田均氏の東京私生活に平成9年まで「満佐喜」の建物が残っていたと書かれていますのでこれが正しいと思います。

<品川館>
 彼女は18日の殺人後、あちこち逃げていましたが20日芝区高輪南町65駅前旅館品川館に大阪市南区南園町209無職大和田直と偽名で宿泊していたところを、高輪署の安藤部長刑事に逮捕されています。所持品のなかに肉切り包丁、石田のメリヤスシャツ、猿股、例の切り取ったものを包んでいた紙包みが発見されたことから殺人事件の犯人と断定されいます。事件は阿部定の愛の独占欲から引き起こされたようです。
判決は懲役6年となり、昭和16年5月出所しています。出所後はまじめな生活をされていたようですが、何度かマスコミに騒がれ苦労されたようです。


 右の写真は品川駅を出て左側の秀和品川ビルです。芝区高輪南町65がちょうどこのビルの場所になります。今は全く面影がありませんね。

<三業地とは>
 芸者置屋、待合、料理屋の三つの業種が寄り集まっている地域でいわゆる花街のことです。待合は場所を提供するだけで、料理ができませんから、料理は料理屋から取り寄せ、芸妓置屋から芸者を呼びました。その中で料亭だけが今日まで存続しています

二子玉付近地図
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尾久付近地図
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【参考文献】
・阿部定手記:中公文庫、前坂俊之
・東京私生活:作品社、冨田均
・都市周縁の考現学:言叢社、八木橋伸浩


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